文久2(1862) |
<要約>
文久2年1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が、幕政改革を目指す水戸の尊攘激派浪士ら6名に襲
撃された。安藤は、大老井伊直弼が暗殺された後に幕閣の実権を握り、朝幕関係の改善を目指す公武合体路線を推進したが、具体策である皇妹和宮降嫁は尊攘派の怒りを買っていた。
また、井伊の開国路線は継承しており、この点も尊攘派の反発を呼んでいた。しかし、桜田門外の変後、諸大名の警備は厳重で、安藤は負傷したが命に別状はなかった。 水戸浪士の意図は討幕ではなく幕政改革であったし、安藤の命にも別状はなかったが、幕府の要人が再度白昼に襲撃されたことは、幕府の権威をさらに傷つけることになった。安藤は4月には老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられた。 |
将軍:家茂 | 首席老中:久世広周、 老中:安藤信正 |
天皇:孝明 | 関白:九条尚忠 |
◆水長の盟約と長州の自重坂下門外の変は安藤の政策に対する反発から起ったが、その端緒は万延元(1860)年7月に水戸・長州藩尊攘派の有志数名が結んだ幕政改革のための水長盟約にある。水戸側の中心人物である西丸帯刀(さいまる・たてわき)や岩間金平は、野村彝之介(のむら・つねのすけ)、下野隼次郎、原市之進、住谷寅之介らと謀議を重ね、安藤の暗殺を計画した。安藤が攘夷に固執する孝明天皇を廃立しようとその典例を和学者塙次郎らに調査させているという風聞も、安藤に対する憎悪をかきたてた。水戸が安藤を斬った後は長州が幕政改革を断行するという計画であったが、長州の藩情は、水長盟約が結ばれたときとは変っていた。文久元年9月に、桂小五郎と結んだ藩政実力者の周布政之助が、航海遠略説を持論とする公武合体派の長井雅楽と衝突して更迭され、藩地に逼塞させられたのである(こちら)。このため、盟約の実行が困難になり、桂は水戸激派に暗殺の延期を申し入れた。しかし、水戸側はこの機会を逃しての再挙は困難だと判断し、大名が総登城する翌文久2年1月15日を暗殺決行日と定めた。 ◆宇都宮尊攘激派との提携水戸激派は、王政復古を唱える大橋訥庵(順蔵)ら宇都宮の尊攘派と提携して、暗殺計画を練り、襲撃を実行する「死士」を選んだ。ところが、大橋の同志から計画が露見し、決行直前の1月12日に大橋ら宇都宮側メンバーが捕縛されてしまった。このため、襲撃は水戸浪士を中心に行われることになった。◆坂下門外の変文久2年1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が水戸浪士ら6名(平山兵助・小田彦二郎・黒沢五郎・高幡総次郎・川本杜太郎・河野顕三)に襲 撃された。計画が事前に漏れたこともあって警備は厳重であり、浪士は全員その場で斬殺された。襲撃メンバーのうち水戸の川辺佐治右衛門は約束の時間に遅れて現場に駆けつけたが、同志が討たれたのを見て、桜田の長州藩邸に駆け込み、桂小五郎に後事を託して自刃した。浪士の斬姦趣意書には安藤の罪状が挙げられていた。内政においては和宮降嫁・廃帝の古例を調べさせたことを「将軍家を不忠に陥れ、万世悪逆の名を流さしむるもの」だと批難し、外交においては府内の品川御殿山を供するなど便宜を図り、「忠義勇憤」の国内尊攘派を仇敵視することは「国賊」だと断じている。安藤暗殺の目的は「上は天朝・幕府を安んじ」、「下は国中万民の・・・禍を防ぐ」るためだとし、以後は、幕政を改革し、攘夷を行い、天皇の意思を尊重するよう主張している(⇒「坂下門外の変の斬奸趣意書」)。趣意書は大橋が起草したものとも、水戸藩士原市之進(のちの慶喜側近)が起草したものだとも言われている。 関連:志士詩歌「坂下門外の変」 |
坂下門外の変時の水戸藩情:水戸藩では、万延元(1860)年8月の斉昭の死後、長岡勢の残党である激派が次々に行動を起した(三十七浪士薩摩藩意見書提出事件、玉造騒動など)。幕府では戊午の密勅返納を一時猶予し、激派(密勅返納反対派)の信望厚い尊攘改革派3家老(武田耕雲斎ら)を藩政に復して鎮静をはかったが、これによって勢いを得た激派が文久元(1861)年5月に英国公使館を襲うなど、外国人襲撃事件が頻発した。6月、幕府は武田ら激派3家老に謹慎を命じ、興津蔵人ら門閥・保守派/鎮派(朝廷返納派)を藩政に起用した。藩庁は激派を投獄するなど弾圧した。このような藩情からも、水戸藩の激派は安藤が政権にある限り自分たちの志を実現させることは困難だと考えていた。 水戸藩処分:安藤襲撃計画には水戸藩の士民も多く関与していたが、一党の根拠地が宇都宮であったことや、関係者が変名を使って身元を隠していたことなどから、水戸藩が制裁を受けることはなかった。 |
長州藩処分:長州藩では、桂小五郎・伊藤俊輔(博文)に川辺が後事を託した件により、幕府の嫌疑を受けて糾問された。しかし、首席老中久世広周に信頼される公武合体派の長井雅楽が彼らをかばい、逆に<激徒が横行するのは幕政の失政によって諸藩の人心を失ったからである。幕府はまず水戸藩の人心を調和させる対策を講じるべきである。幸い、小五郎は水戸藩に知己が多いので彼に調和の任を命じてはどうか>と提案したため、譴責を受けただけで放免された。 |
水長盟約と航海遠略策 島津久光の率兵上洛と寺田屋事件
更新日:2003/7/11
<主な参考文献>
『徳川慶喜公伝』・『水戸幕末風雲録』・『維新史』・『茨城県の歴史』 |
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