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11. 武力倒幕(討幕)にいたる分岐点・・・会津藩の強硬姿勢
(2002/12/28、慶応3年末の「今日の幕末京都」を更新しながら)

このサイトのメインは江戸開城(幕府瓦解)にいたる政治的プロセスです。一つには、わたしには「武力倒幕(討幕)は必然だった(幕府は倒されて当然だった)」という見方に対して、「本当にそうなんだろうか?」という興味があるからで、江戸開城への道はその疑問を自分なりに筋道を立てて読み解いていく道のりだったりもします。(幕府びいきというより、ちょっとアマノジャクな好奇心です^^)。

わたしは、討幕が起らない政治的選択肢というか、分岐点はいくつもあったのではと思っていますが、慶応3年末の動き(こちら)というのはその最たるものの一つだと思います。時代は大政奉還から一挙に王政復古・幕府追討へと流れたわけではなく、実は、大政奉還直後、京都の政局は公議政体派に有利となっていたんですよね。

そして、追い詰められた討幕派にとって、(特に)会津の強硬姿勢というのがよりどころ(討幕の口実)になっていたような気がします(こちら)。当時の人々も当然、そう感じていたようで、討幕派の大久保利通を説得しようとしてその障害の一つに会津の強硬姿勢があると知った松平春嶽は、まず会津藩を説得しようとします。呼び出されたのは強硬派の手代木直右衛門ですが不成功に終ってしまいました(こちら) 。

実は会津藩にも公用人・小野権之丞のような公議政体よりの発言もありましたが(こちら)、やはり幕権回復派の声の方が大きかったようです。会津が小野の公議政体でまとまっていれば、その後の政局の展開はかなり違ったものになっていたかもしれません。討幕派は名目を失ってしまうわけですから。

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ところで、慶応3年末の「今日」をプチ再開しながら、相互リンクさせていただいている「戊辰戦争百話」さんのお話を一話ずつ読ませていただいているのですが、なぜ、こういう戦争(会津戦争)が起ることになったんだろう、戦争回避への道はなかったのか・・・とも思うようになりました。ほんとうに、遅まきながらなんですが^^;。でも、考えてみれば、守護職を切り口に幕末というか倒幕過程(幕府瓦解過程)を追うということは、会津戦争への道をたどることでもあるんですね。



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