12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3 テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ
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慶応3年11月27日(1867年12月22日)、幕府若年寄格永井尚志は、土佐藩後藤象二郎(公議政体派)に、慶喜の構想は「郡県制」であると伝えました。 この日の朝、越前藩中根雪江は後藤象二郎を訪ねて、永井尚志の反応を尋ねました。 後藤によれば、永井は後藤らと同論であるが、幕府側から言い出したのでは嫌疑を受ける可能性があるので外様藩が端緒をつけてくれれば好都合であるとし、一日も早く(多数派工作に)取り掛かってほしいとの意向を示したそうです。 関連:慶応3年11月25日:土佐藩後藤、越前の同意を得て朝廷工作へ また、このとき、永井は慶喜の構想は郡県制である(「日本終には郡県に相成べしとの上様御見込」)と伝えました。慶喜は、英国では、公議を導入すれば郡県制をとらなくては強国にはならないと決したとし、日本も(強国になるために)倣うべきと主張していたそうです。 ** この日の夕方、松平春嶽は薩摩藩大久保一蔵(利通)を呼び出し、「有志輩」の尽力によって慶喜が「御反正」したことを伝え、薩摩藩の今後の見込みを尋ねました。大久保は、会議公論はもっともなことではあるが、朝廷は人材不足であり、「御手下しの次第如何相成ことしかるべきか」と、藩邸の議論が一定しないと述べました。さらに、慶喜の反正については、行動に現れなくては疑惑が晴れ難く、「紀会桑等の雑説」もあるので、一日も早く行動に顕すことを願う・・・と言ったそうです。 <ヒロ> 「紀会桑等の雑説」=軍事力行使も辞さない幕権回復論のことだと思います。慶喜の政権返上で、朝廷・諸藩の倒幕派が軟化し、討幕派は公議政体派に追い詰められているのですが、皮肉なことに、紀会桑の幕権回復論が、討幕派の最後のよりどころになっているようです。逆にいえば、紀会桑等が公議政体に転じれば、討幕派はまったく名目を失ってしまうわけです。そういうわけで、越前藩は、(たぶん紀会桑の中で一番の強硬派である)会津藩の説得にとりかかります・・・(11月28日の「今日」へ) 関連: ◆慶応3年11月10日:慶喜、二条城で春嶽に謁見。政権返還は本懐であると告げる/越藩中根雪江、永井尚志訪問。会津の現況をただす。 ◆慶応3年11月11日:尾張犬山藩家老、越前藩側用人に会津藩は東帰させるべきと語る ◆慶応3年11月15日:朝廷、慶喜に新政府組織案を諮問/永井尚志、「会津は専ら復権の主張と承り候」と危ぶむ。 ◆慶応3年11月22日:岩倉具視、中山忠能宛書簡に「会桑の罪いかん」と記す ◆慶応3年11月23日:薩摩藩主島津茂久、率兵入京(小松抜き)/慶勝、二条城で慶喜に対談。「疑念氷解」 ◆慶応3年11月24日:薩摩藩吉井幸輔、慶喜への疑念はないと発言。また、公議による王政復古を急ぐ必要性に言及。 参考:『再夢紀事・丁卯日記』 2002/12/25 |
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