12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月15日(1867年12月10日)

二条摂政、慶喜に新政府組織案を諮問
永井尚志、「会津は専ら復権の主張と承り候」と危ぶむ。
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺。新選組犯行説流れる
薩摩藩大久保一蔵、再入京

(注)慶応3年は未だ飛び飛びです

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、二条摂政は政権を返還した慶喜に新政府組織案を諮問しました

朝廷では政権が返上されたものの、王政復古の方案を決めることができないでいました。近衛・鷹司前関白らから太政官八省の再興で朝議をまとめようという動きがあり、摂政は慶喜に対して「王政復古には諸事曖昧ではいけないが、急に往古の郡県制にも復しにくいだろう。郡県に限らず諸事について意見を述べてほしい」と諮問したそうです。(「」内は口語訳by管理人です^^;)

<ヒロ>
この時期には、王政復古は既定の政治的アジェンダであり、どのようにそれを実現するかという「方案」が問題になっていたんですね。そして、慶喜は朝廷から一番に相談を受ける存在だったわけです。もちろん、大政奉還-王政復古に反対する幕権回復派もいたわけですが・・・(会桑・新選組など。保守反動派って言う感じで受け取られていたんじゃないかな)↓。

参考:「丁卯日記」、『徳川慶喜公伝』 2002.12.10

同日、若年寄格永井尚志は、越前藩中根雪江に対し、会津藩は専ら幕府復権の主張であると述べました

この日の朝、中根が永井尚志を訪ねたところ、来客中であり夜にまたくるようにとのことでした。その場に会津藩公用人小野権之丞がいあわせ、中根に次のように述べたそうです。

『方今、政事上に統摂なくしては、乱階眼前なれば、何とか相成らずしては相適わず。此時に当りて、親藩同士一層懇談に及ばずしては相成り難く、とかく内府公(慶喜)の御盛意を*藪の説これあり大息たまらず、どこまでも貫徹致さずしては相済まず、別して肥後守は御用部屋へも立ち入り候役柄候えば、御未発の所にては彼是申上げ候次第も之有趣に候えども、此如仰出されると相成候上は、御趣意徹底致さず候ては相済まぬ義と心配』(適宜読み下しby管理人)

中根は
<(会津藩などに?)政権を復そうという議論もあるときくが、そのようなことがあれば以てのほかである>(口語訳by管理人)というと、

小野は<そういう説もあるようだが、(慶喜が)御英断によっておおせ出された上は、朝廷より(政権を)ご返却になったとしてもお受けになるべきではない。(諸侯が上京して)会議公論の上、是非とも(政権を再び慶喜にという話に?)となったときは知らず、ただいまそのようなことは決してないと思っている。ただ幕府を倒そうと企てる向きがどのようなことをしでかすやも計りがたく、そこを懸念している>(口語訳)と答えたそうです。


夕刻、再び永井を訪ねた中根に、永井は「会津は如何、専ら復権の主張と承候」といったそうで、中根は午前中の小野との話を説明したそうです。

永井は<権之丞もそのように言っているか。彼藩(会津藩)でよくわかっているのは(手代木)直右衛門と(外島)機兵衛の両人である。しかしながら、彼等も右のあんばい(復権の主張)であるし、兼ての藩風もあって、なかなか一意に同論屈服することは難しいことである。彼等が時宜により、(政権返還について)遺憾の歎を発することがあっても、それをもって一藩復権論とするのも違うのだろう>と言ったそうです。

<ヒロ>
会津藩といえば幕権回復の強硬派イメージがついていますが、藩内は、必ずしも復権派ばかりではなかったようです。永井の話では、どうやら小野(大政奉還推進)VS手代木・外島(幕府復権)だった模様・・・。

参考:「丁卯日記」 2002.12.10

同日夜、京都の近江屋に宿泊していた坂本龍馬・中岡慎太郎が刺客に襲撃されました。坂本は死に、中岡は重傷を負いました。土佐藩氏寺村左膳の記録によれば、その日のうちに、新選組犯行説が流れました。(「寺村左膳手記」・「寺村左膳道成日記」)

現在では犯人は見廻組説が有力なようです。暗殺は、見廻組の佐々木只三郎に対して桑名候から指示があったと、佐々木の兄手代木直右衛門が言い残したという伝記があります。(参照:「徒然に」「会津藩と彦根藩(2)坂本龍馬暗殺の密談?!」

近江屋跡

<ヒロ>
なお、最近、伊東を坂本・中岡暗殺犯に挙げるひとがいるようですが、単なる憶測であり、裏づけ資料はまったくありませんのでご注意を〜。しかも、伊東について基本的なことをおさえていない人たちが伊東説を唱えていることも多いよう(涙)。伊東が武力討幕なので薩摩の歓心を買おうと坂本暗殺することにした・・・とか。伊東は、建白書をみると明らかだと思うのですが、武力討幕じゃなくて公議政体論寄りですよ〜(意外と慶喜や越前藩と路線が似てるかも)。それに、17日まで(一説に16日まで)息があっていろいろ証言している中岡は伊東と数度あっていて顔を知っているのです。伊東が暗殺犯なら「伊東にやられた」といってるはずですよネ。ちゃんちゃん^^!

★新選組犯行説がでてきたのは・・・

現場にかけつけた谷干城の明治39年の講演によれば、まだ息のあった中岡が犯人は「新選組の者だろう」といったということです。

『石川(中岡の変名)の判断では「これはどうしても人をさんざん斬っておる新選組の者だろう」…(略)…まず新選組と鑑定をつけたものでありますから、この方の手がかりを探さなければならないというもので…(略)甲子太郎が18日夜殺された。そこで彼の斬り残されの者らは、もともと新選組に入っておったものであるからして、刀に見覚えがあろうというので、わたしと毛利と、それから彼の薩摩の中村半次郎と三人で伏見の薩摩屋敷へ行って、彼の甲子太郎の一類の者に会うて、その刀を見せたところが、この二、三人が評議してみて、これは原田左之助の刀と思うと…言い出した』

谷が衛士残党を訪ねたことは中村半次郎の日記からも確認できますし、衛士残党の阿部の証言とも一致します。(阿部は、コナクソという四国の方言を使ったというところから原田ではないか・・・と思ったようですが)。←慶応3年11月19日の「今日」で取上げる予定です。

よく伊東が新選組犯人説を唱えたのが最初とされているようですけれど(伊東が新選組犯行にみせかけるためにウソそついたとかね^^;)、これは、大正15年の田中光顕晩年の証言が初出なようで、中岡が新選組を示唆したとする谷の証言よりずっとあとのことになります。田中の記憶がごっちゃになっていた可能性もあるんじゃないかなぁと思ったりもします。谷・田中どちらの記憶が正しいか、断定はできませんが、中岡がまず新選組を示唆した説ももっと知られてほしいと思います。

★伊東と藤堂の坂本・中岡訪問

なお、御陵衛士の伊東と藤堂が、この日、坂本龍馬・中岡慎太郎を訪問して国事を論じ、狙われている危険性を警告したという説(西村兼文)がありますが、わたしは、記憶違いあるいは話を劇的にするための誇張かもしれないと思っています。

西村によれば、伊東は坂本らと2時間ほど国事について話したあと、伊東は坂本・中岡に向かって、「このごろ新選組・見廻組がつけねらっているときくが、町屋にいては危険なので藩邸に移り、からだを国家のために保護せられよ」とひそかに告げたそうです。中岡は「あなたの親切な注意はかたじけない」と感謝したが、坂本は度量が狭いのか、なにの挨拶もしなかったので、中岡にこんこんと説諭して退出したそうです。高台寺に戻って、服部・篠原に向かって「坂本はわたしがもともと新選組にいたので疑って危急の報をききいれなかった。中岡は確かにそのとおりときづき、挨拶が切だった。龍馬が警告をききいれないのはいかにも残念だ」と語ったところ、その夜に坂本らが危難にあって、残念がった・・・といいます。(西村は坂本の暗殺日を間違って記録しています)。

御陵衛士だった阿部は、史談会で、慶応3年10月18日に坂本が高台寺に来たとしており、その頃から、陸援隊に新選組の間者がいるので市中にいては危険だと、警告したが、坂本は聞き入れず、暗殺されてしまったと語っています。(偶然かどうか、その日には、坂本は望月清平宛書簡で、<幕吏が狙っているので薩藩邸へと吉井幸輔に勧められたが断った。土佐藩邸にはいりたいのでよろしく>との内容を書き送っています)。 さらに、中岡は、10月に伊東から忠告を受け、一時的に住まいをうつしています。

また、『維新土佐勤王史』では「伊東甲子太郎は、一日とくに来りて幕吏中に深く坂本と中岡とをうかがうの徒あるを告げ、二人に戒告するところありて土藩の邸に移寓すべきをすすむ・・・」としてはいますが、日時は明確にしていません。

とりあえず、坂本・中岡を暗殺当日、初めて訪問して、危険を警告したというのは明らかな間違いです。もちろん、たまたま、この日にも会いにいって、その帰りに再度警告したという可能性はあると思いますが・・・。確か、この日、伊東らが坂本を訪問したという傍証はなかったと思います。

参考:『史談会速記録』、『新選組史料集コンパクト版』、『新選組日誌下』、『新訂 陸援隊始末記』、『誰が竜馬を殺したか』

2000.12.10、2002.12.10、2003.5.3

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