私は、トレセンの南ブロックにある長瀬厩舎にやってきた。
全休日とはいえ、馬の世話などもあって厩舎をがら空きにしておくわけにはいかないので、ここには必ず誰かがいる。大抵は厩舎の長である長瀬先生と、厩務員が何人かだ。
私がこうして月曜日にここへ来るのも、そう珍しいことではない。厩舎の雑用をこなし、長瀬先生や厩務員と話をする。趣味らしい趣味がない私の、数少ない楽しみだ。
――逆に言えば、だから今日みたいな気分の日にはここを頼りたくなるのだろう。

「おはようございます」
「お、おはよう」
長瀬先生は、大仲部屋でスポーツ新聞を読んでいた。いつも通りの、月曜日の朝だ。
「今日は、先生おひとりですか?」
「あたしもいるよ」
先生より早く、馬房の方から声がした。右を向いて大仲と馬房の境目を見ると、存在感のある大柄な体が入ってくるところだった。
「先生、お仕事終わりました。コーヒーでもお飲みになりますか?」
そして、私に対する返事とはまるで違う口調で、先生にそうたずねる。
「ああ、頼む」
「はい、わかりました」
「私も手伝います」
彼女に対して無反応のままなのが気になっていたのと、体を動かしていた方が気が紛れるのとの理由で、私も名乗りを上げた。
「ありがと。じゃあこれ、よろしくね」
彼女は古いガス台の上に乗っていたヤカンを取って私に差し出した。
私がそれを受け取って水を入れ、火にかけると、彼女は鼻歌混じりに長瀬先生愛用のコーヒーカップを取り出し、インスタントながら香りがいいことで定評があるコーヒーの粉を入れ始めた。何かいいことでもあったのか、私とは対照的に上機嫌らしい。
彼女は高遠きっかさん。ここの厩務員だ。長瀬先生が騎手時代に学んだ高遠敏久先生の孫に当たる。昔は彼女も騎手に憧れていたらしいのだが、女性にしては珍しく身長が175cm、体重も60kgくらいあったため断念せざるを得なかったそうだ。しかし、本当は今でも馬に乗る方が好きらしく、もう少し経験を積んで、自ら馬に調教をつける「調教厩務員」になりたいといつも話している。
見た目通り(と言っては少々失礼かもしれないが)体力に自信があり、時に不必要なのではと思えるくらい能動的な性格。私から見たところでは、頼りになる年の離れた姉といった感じだった。
普段はこの厩舎の2階で寝泊まりしていて、長瀬先生がいらっしゃらないときの留守番や、厩舎内の「家事」は主に彼女の担当だ。時には、私の両親と同い年ながら独身の長瀬先生のために、食事を作ったりしていることも。

やがてコーヒーが出来上がり、私は長瀬先生ときっかさんと3人でテーブルを囲んだ。
「今週は有馬記念ね。どうなの? ゴールドロマネスクの調子は」
……やはりその話題は避けられないらしい。できることなら話したくはなかったが、仕方がない。
「私、今回ロマネスクには乗れないんです」
「乗れない!?」
案の定、きっかさんも長瀬先生も大声を上げて驚いた。
「乗れないって、あなた……」
きっかさんは納得のいかなそうな顔をした。先生は軽率な言葉こそ出さないものの、同じ瞳で私を見ている。――しかし、一番納得がいかないのは他ならない私自身だということにくらい、気付いていただきたいものだ。
「昨日、五十嵐先生から通達を受けました。有馬では、彼女に私の母を乗せると。30年も現役を続けたんだからG1のひとつくらい勝たせてあげないとかわいそうだ、という理由で」
「なるほど……」
長瀬先生が腕組みをし、きっかさんは同情の目で私の顔を見る。反応はそれぞれだったが、ふたりともどう言葉を出していいものか探しているように、私には見えた。
「ごめんなさい。今はあまりそのことは考えたくないんです」
だが、それが私の本当の気持ちだ。だから私はそれを正直に言って、話をここで終わりにしようと試みた。
「先生、この後は何か、私にできるお仕事はございませんでしょうか」
そして、あからさまに話題を変える。
「そうだな。俺はもうちょっとしたら出かけなきゃいけない。真奈は……そうだ。そこのパソコンの周辺にあるCDを整理しといてくれ。中身をチェックして、時間が余ったらラベルでも貼っといてくれるとありがたいんだが」
「わかりました」
最近はほぼすべての厩舎で、馬の管理にパソコンを利用している。データベース的な意味合いもあるし、馬ごとに調教でのタイムを入力しておけば調子の把握も簡単――とそういうことにも使われている。パソコンを置いていないのは、「古きよき時代」を守り続ける五十嵐厩舎くらいだ。
この大仲部屋のパソコンは厩舎スタッフのほとんどが使うには使うが、一番使いこなしているのは私だ。自分で言うのも何だが、CDロムの整理なら私が適任だろう。
「きっかは外の掃除を頼む。いつもそんな仕事ばかりで悪いが」
「構いませんって。あたし、自他ともに認める体力バカですんで」
私たち3人は笑い合った。

 

 

30分後。
長瀬先生が外出すると、私は言われた通りCDロムの整理に入った。きっかさんは先生を送り出したあと、そのまま外で掃除を始めた。
CDロムといえば、昔は書き込みと読み出しはできても「上書き」はできないタイプもあったが(プログラムなどが入っている読み取り専用のものはもちろん別として)、最近ではかつてのフロッピーのように何度でも自由に上書きできるタイプが主流になっている。普通に「CDロム」とだけ言うときはそれを指すほどだ。
メモ感覚で手軽に扱えるようになったはいいが、その分未整理のCDロムが増えてしまい、収拾がつかなくなることもしばしばだ。そこでこういう整理作業が必要になるのは、紙にメモしていた時代から現代になっても、何も変わっていない。
所詮、メディアがどれだけ進歩しても、それを扱うのは人間なのだ。

CDロムを読み出してはその内容をラベルに書いて貼り、種類別・時期別に分ける。そういうことをどれくらい続けただろう。
私はふと、長瀬先生の机の引き出しの奥に、見慣れないCDロムを見つけた。
これにもラベルは貼られていない。いったい何が入っているのだろう。
とりあえず中を見てみようとケースを開けたとき、これを「見慣れない」と思った理由――すなわち違和感の正体に気付いた。
これはいわゆる「一度書き込んだら上書きできないタイプ」。このメーカーでは、もうこの型は遥か昔に製造中止になっているはずだ。つまりこれは、相当古いCDロムということになる。これがまだ現役だった頃に引き出しに押し込められ、そのまま忘れ去られてしまったのだろうか。
好奇心に駆られて、早速それをパソコンのCDドライブに入れ、読み出してみる。

……。

一目で、今まで見てきたものとは中身が違っていることがわかった。
CDを丸1枚使っているわりには、書き込まれているファイルはたったひとつ。そのファイル名は「diary_backup.txt」。
日記のバックアップ……長瀬先生の?
中身を見ていいものかどうか一瞬迷ったとき、ファイルの下にある作成日時――この場合、ファイルがCDに書き込まれた日時だ――が目に入り、私は驚愕した。
なんと、「2007/12/16 22:24」となっている!
2007年といえば、私や僚が生まれた年。12月16日は、私が生まれて1ヶ月を迎えた頃だ。
そんな昔から――もう21年も前から、このCDロムは長瀬先生のもとで大事に保管されていたのだ……。

これは見るべきではない。そう判断した私は、開かずにウィンドウを閉じようとした。
が、驚きで集中力が鈍っていたせいか、間違えてクリックし、ファイルを開いてしまった。

――開かなければよかった、と思えるようなファイルを。

 

 

『11月12日
俺に、娘と呼ぶことのできない娘が生まれた……』

……!?
私は、即座に続きを読んだ。

『あいつは、俺のことは内緒にして娘を育てるらしい。
旦那も娘も欺いて。
……あいつは、俺とふたりだけの重い秘密を持つことで、俺との結びつきを感じようとしているのだろうか。
ならば、俺もそれを感じることを許されるだろうか。
真理子……』

 

 

――青く凍りついた心で、次の日を読む。

『11月13日
娘に会った。
真理子によく似ている。
心なしか、俺の面影もあるような……。
だが、それは罪深い面影だ。
父と名乗れないこの身がもどかしい』

『11月14日
娘の名前が『真奈』と決まった。
由来を聞くと、真理子の『真』と、あいつの姉の名前『奈美子』の『奈』を取ったと答えて笑った。
しかし、俺にはこう思えてたまらない。
『奈』は『ながせ』の『な』ではないのかと……』

『11月15日
また娘に会いに行った。
が、この胸に喜びは訪れず、黒い霧は一向に晴れようとはしない。
……運命とは、何と皮肉なものだろう。
なぜ俺たちはもっと早く、愛し合っていることに気付かなかったのだろう。
できるものならば、あの分岐点に還りたい。
選択を変え、篠崎に奪われるよりも早く、真理子をさらってしまいたい。
そして、今度こそ、この胸に父としての喜びを……』

 

 

そんなことが毎日毎日、12月16日まで綴られていた――。

 

 

……私は、過去を示すディスプレイの文字の前で、無感情に考えた。

私の顔は、不本意ながら母親似だ。
父には――篠崎剛士には、まったく似ていない。
性格は若い頃の父にそっくりだとよく言われるが、それは後天的な要素が強いことくらいは当然知っている。

血液型についても、考えてみる。
私はB型で、母はO型。すなわち、私の実の父親は必ずB型かAB型でなければならない。
――長瀬先生は、確かB型だったはずだ。
幸いというか、父もAB型で条件に当てはまるのだが――。

 

 

私は瞳を閉じた。

 

 

――そして、心が動き出した。

その結果、私は……。

 

 

A  激しい怒りを覚えた。

B  深い悲しみに包まれた。

C  違和感ばかりを感じていた。


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