俺は寺西厩舎へやってきた。
「お、僚。月曜だってのに早いね。どうかしたのか?」
大仲で迎えてくれた寺西先生が、俺の姿を上から下まで見る。……無理もないな。時間に遅れることなんかしょっちゅうの俺が、用事もない日の朝に来たんだから。
「ちょっと、ウィローズブランチの様子が気になりまして」
「おお、おお、そうか。有馬でのかわいいパートナーだからな。ブランチは今日も元気にしてるぞ」
「そうですか。ちょっと会ってきます」
……大きな声じゃ言えないが、寺西先生のこのしゃべりは苦手だ。性格に個性がない分、しゃべりでカバーしようとしてるらしいが、無理がある。
逃げるように、俺は大仲から馬房の方へと移動した。
ウィローズブランチ、牝3歳、透けるような尾花栗毛。
9戦6勝の成績は、競馬界では立派なものだ。デビューから今までで負けたのは、桜花賞・秋華賞・エリザベス女王杯の3つのG1だけ。
ところが、物事をネガティブに考えるやつってのはどこにでもいるもんで、勝てたG1がオークスだけというところに目をつけて「トライアルホース」なんて呼ぶ連中もいる。こいつのがんばりなんか、認めようともしない。
こいつがうちの厩舎に来て、実はまだ1年も経っていない。新しい馬がデビューする「新馬戦」ってのは2歳の夏から始まるのだが、こいつは競走馬としての仕上がりが遅かったせいで、1年前は名前すら決まってなかったのだ。
3歳になってやっと厩舎へ来て調教が始まり、そして名前がついて、今年の2月にデビュー。
調教で手綱を取ってたのは俺だったが、デビュー戦に乗ったのは別のジョッキーだった。いい馬だとわかっていたから、自分が乗りたかったって気持ちも当然あった。だが、そいつは当時の俺にまだ実績と信頼がなかっただけの話。他人は責められない。
ブランチは、まるでレースの進め方を自分で理解しているかのような完璧な走りを見せた。そのデビュー戦はおろか、次の桜花賞トライアルも圧勝し、一躍クラシックの主役になった。桜花賞は負けたが、オークスは勝った。
こいつは今、この寺西厩舎のエースと言っていいだろう。おこぼれとはいえ、そんな馬で俺が有馬に参戦できるとは……。
「……頼むぜ、ブランチ。親父のために、俺を有馬で勝たせてくれ」
俺はブランチの顔を、できるだけ優しくなでてやった。
「もちろん俺も、全力を尽くす。だからお前も……うわっ」
突然、ブランチは首を大きく横に振った。小柄な俺は、その勢いに思わず飛ばされそうになる。
「何だよ、危ないなあ……」
半ば笑いながら顔をブランチに向け直すと、やつはまだ、首を横に振り続けていた。
「……ブランチ?」
俺は奇妙な感覚を覚えた。
ブランチの首の振り方は、それはまるで……人が何かを必死で否定するときのような、そんな強さと鮮明さを持っていた。
「お前……お前は、俺に協力してはくれないのか?」
ブランチはなおも首を横に振った。それは違う、と言いたげに。
「なあ……お前、どうしちまったんだ? とりあえず、その首を止めてくれよ」
本気でその言葉が通じると思ったわけじゃない……だろう。だが、その非現実的な可能性に賭けたくなったのも、また事実だった。
すると……ブランチはぴたりと動きを止めた。
まさか。
「首を縦に振れ」
ブランチは言うことを聞いた。
「右前脚を持ち上げろ」
ブランチは命令に従った。
「俺の右の袖をくわえろ」
ブランチは忠実だった。
「質問に、イエスなら首を縦に、ノーなら横に振れ。……俺は女か?」
ブランチは首を横に振った。
「ブランチ!!」
……このときの俺の気持ちを、どう表したらいいんだろう。
ブランチは人間の言葉を理解している!!
人間並みの知能を持ってるのか、それとも人間が憑依してるのか……それはわからない。
だが、こいつがレースで強かったのは、きっとそのためだ。
こいつはレースのやり方を理解していて、それでいつも1着ゴールができたんだ。3回のG1で負けたのは、能力的な限界なのか。
とても信じられない、ってのが、普通の人間の思いだろう。
でも俺は……信じた。信じようと思った。
もともとこいつには、不思議なエピソードがあった。
こいつの名前「ウィローズブランチ」……日本語に訳すと「柳の枝」。
こいつは今からちょうど1年くらい前、まだ北海道の育成牧場にいた頃、病気にかかって死にかけたことがあったらしい。牧場のスタッフが見守る中で元気を取り戻したのだが、そのときこいつの体の下に、ちぎられたばかりの柳の枝が落ちていたというのだ。
その牧場の周囲には柳の木はない。干し草に紛れていたにしては新しすぎる。しかもこいつが目を覚ますまではそんなものはなかった。
実に不思議な出来事だったが、スタッフの若い女が、何かの奇跡の前触れかもしれないと言って、その枝を大事に取っておくことに決めた。
その話は馬主にも伝わり、それでこいつの名前が決まったという。
俺は、ブランチの頭上を見上げた。
奇跡の枝は、ドライフラワーとなってそこにぶら下がっている。お守りとして育成牧場から寺西厩舎に贈られたものだった。
俺は植物のことは詳しくない。が、寺西先生が言うには、柳の枝は男女の縁を結ぶまじないによく使われるそうだ。競馬界で縁結びなんか願っても何にもならないとは思うが、勝利の女神と仲よくなるためと考えれば納得もできるか。
……それから30分ほどかけて、俺は「はい」か「いいえ」かで答えさせる形式を取り、ブランチにいろんな質問をしていった。その結果、大まかなことがわかってきた。
どうやらブランチは、元は人間の女子高生だったらしい。1年前に事故で死んでしまい、魂だけこの馬に乗り移って、1年間を競走馬として過ごしてきたという。この厩舎のスタッフはみんな大好きだと言われ、嬉しくなった。
だが、イエスノーで答えさせるのには限界があった。何とかしてこいつに言葉を使わせる方法はないものだろうか。
俺はそれをちょっと考え、そして名案を思いついた。
「ブランチ、待っててくれ。すぐ戻る」
10分後、俺はお手製の「会話装置」を持って馬房に戻った。
1メートル四方ほどのビニール風呂敷にマジックで50音表と0〜9の数字を書いたもの。親父が子供の頃に流行ったらしい「こっくりさん」とかいう心霊占いからヒントを得て作った。こいつをブランチの下に敷いて、前脚を使って答えてもらうのだ。
早速実験に入る。
「ブランチ、まずはお前の、本来の名前を教えてくれ」
するとブランチは、右の前脚で50音表を丁寧になぞった。
『あやか』
「そうか、あやかか。どういう字だ?」
少々意地悪だが、この表に慣れさせるためだ。答えてもらおう。
『いろどりに、なつ』
「ああ……彩夏、だな。わかった。ありがとう」
ブランチは……彩夏は、うなずくように俺に顔をこすりつけてきた。どこか嬉しそうにも見えた。
それから少し話を聞いてみた。
こいつのフルネームは野々村彩夏。去年のちょうど今日、高校2年だったこいつは、自分が通う高校の屋上から落ちた。屋上で柵の外に出て風に吹かれていたら、足を滑らせてしまったそうだ。自殺ではないらしい。
落ちたとき、ちょうど真下に柳の木があった。彩夏は何とか助かろうとその枝をつかんだが、当然というか枝がちぎれただけで、そのまま地面にたたきつけられて死んでしまった。
……気がつくと、彩夏は天使のような女の前に浮かんでいた。その女は柳の木の精だった。話によると、死ぬときに柳の枝をつかんでいた人間は、期間は限定されるものの、一時的に生き返ることができるらしい。どこのどいつになるかは自分で選べるが、混乱を避けるため、人間にだけはなれないと言われた。
それで彩夏は、デビュー前の競走馬になってこの美浦トレセンに入り込むことに決めたそうだ。
「なんでだ? トレセンなんて、ずいぶん具体的じゃないか。誰か目当てのやつでもいたんじゃないか?」
俺がたずねると、彩夏ははっきりと首を縦に振った。
「そうか。誰だか教えてくれよ。よければ呼んできてやるから」
俺は言った。……その「目当てのやつ」が自分なんじゃないかという、微かな期待を胸に。
すると彩夏は、ためらうようにその名前を示した。
『たくらしょうた』
「田倉翔太?」
それは、某専門紙のトラックマンの名前だった。
30代半ばの独身男。トレセン内を歩いていればかなりの確率で出くわす。ただ、南ブロックの担当なので、北ブロックの寺西厩舎所属の俺とは接点がなく、顔を知っている程度だ。携帯の番号もわからない。
しかし……この彩夏が、あの田倉さんとどういう関係があるんだろう。
田倉さんの正確な年はわからないが、普通に計算して、彩夏との年の差は15歳前後。親子にはならないし、兄妹にも恋人同士にもなりにくい、微妙な差だ。強いて挙げるなら叔父と姪だが、叔父に会いたくてわざわざ馬に転生してまでトレセンに来るってのもすっきりしない。女子高生がトラックマンに憧れるってのも妙だしな……。
「田倉って、トラックマンやってる田倉さんか?」
俺は念のため聞き返した。トレセンに来たって時点ですでに確定的だったが、それでも聞かずにはいられなかった。
彩夏は、俺の問いにしっかりうなずいた。
「そうか……あの田倉さんか」
俺は、彼をここへ連れてきてやろうと考えた。彼にどう説明していいものやら迷うが、そんなのは些細な問題だ。理由はどうあれ、1年間も馬で暮らしてきたのに、厩舎の位置の関係で彼に会えなかったなんて気の毒すぎる。
さて、どうするか。
俺は……。
B 田倉さんと親しい真奈に連絡して、彼を呼んでもらうことにした。
C 田倉さんについて、もう少し彩夏に詳しく話を聞いてみることにした。