俺は、意地でも掃除を決行することにした。
いつも真奈に無責任だの何だの言われるのも悔しい。たまには初志貫徹の精神も見せなきゃな。
……見せなきゃ、といっても、ここには俺しかいないのだが。
そして、俺は掃除を進めていった。
雑誌を片づけ、床に散らばった服を洗濯の方へやり、窓を磨き、CDを棚に押し込み……。
まったく、よくもまあこれだけの大仕事が必要な事態になるまで放っておいたもんだ。我ながら情けない――なんて考えながら、ベッド脇のナイトテーブルの整理を始めようとしたとき、その上に置いてあった物にふと目を奪われた。
――淡いピンクの色をした封筒。
俺のところへ来た、ファンレターだ。
メールが主流になった今、プレゼント以外の物をこうして郵便で送ってくるやつはほとんどいない。俺のファンではこの人だけだ。が、本人の字で形に残るってのが嬉しくて、つい「添い寝」みたいな形でこうしてここに置いてしまっていたのだった。
差出人の名前は、佐川みゆき。千葉県に住む女だ。
デビュー当時から俺のことを応援してくれているらしい。もしその応援が家族に内緒だったらやばいので手紙の返事こそ書いたことはないが、本当にありがたいし感謝している。
手紙の内容は俺への励ましが主で、自分のことはほとんど書いてこない。だから、佐川みゆきの素性はわからない。顔も知らないし、性格も知らない。ただ、文章から見て、落ち着いた感じの優しい女だとは思う。
年は俺と同じくらいだろう。大人びた印象もあるので、いくつか上かもしれない。
また、彼女は俺の名前が書かれた応援の横断幕を作ってくれた。家が中山競馬場のすぐそばのためか、俺が中山で騎乗する日には、ほぼ皆勤賞ものでそれをパドックの柵に張りに来てくれる。
そして、その横断幕を見ると俺はいつも、つい人混みの中に目をやってしまうのだ。一番俺好みの女性客を探して「あれが例の佐川みゆきなんじゃないか」と勝手に想像して苦笑い、とか……。
俺は封筒を手にし、中身をひっぱり出した。
1枚だけの便箋は、封筒とそろいのピンク。どうやらみゆきの好きな色らしく、今までにもらった手紙の大半がこの色だった。
便箋を開くと、今時珍しい綺麗な文字が、少ない言葉を綴っている。
ウィローズブランチがオークスを勝ったときの祝いの手紙だ。あのときのジョッキーは俺ではなかったのに、寺西厩舎のG1勝ちを本当に喜んでくれ、さらに俺が「主人公」になれる日を楽しみに待っていると書いてきた。
今回の有馬をがんばりたい気持ちはもちろん親父のためだが、いい結果を本気で望んでくれる人が他にもいるってのは、やっぱり嬉しい。
そういえば……。
春の終わりにもらったこれ以来、みゆきは「ファンレター」を俺によこしていない。
8月の俺の誕生日にはカードをくれたし、つい昨日もちゃんと横断幕を持って中山に応援に来てくれたが、この手の「俺への個人的な手紙」はこれっきりなのだ。
理由はわかる。
悔しいが、最近ジョッキーとして誇れるような活躍をしてないからだ。ほめる要素がなければ、ファンレターも書きにくい。
ふと、考えてみる。
もし有馬を勝てたら、彼女は俺にどんな言葉をくれるだろう……?
……そんな期待はまだ早いか。
それより、とっとと終わらせよう。
俺は便箋を封筒に戻し、片づけ終えたテーブルの上に移すと、再び掃除との格闘を始めたのだった。
それから3日後の木曜日。
俺は、「有馬記念フェスティバル」に出演していた。
これは毎年有馬の週の半ばに行われているもので、でかいホールに客を入れ、俺たち騎乗予定ジョッキーだの予想家だのがレースについてとことん語るイベントだ。
俺はあくまで代打としての騎乗なので、それほど多くはしゃべらされなかったが、やはり進行役の男から「お父様のためにも是非勝ってください」という言葉は出た。もちろんこれは俺自身が「親父に捧げる勝利を目指す」と公言していたからで、俺は笑顔で「がんばります」と答えた。
他には、ちょっとした理由でゴールドロマネスクの鞍上が真奈から真理子おばさんに替わるという事件(?)があり、娘から馬を奪い取った形になったおばさんは、気の毒なことにそれについて突っ込まれまくっていた。おばさんも真奈も傷ついてるんだから、そんな無神経な質問はしないでもらいたいものだが……。
そしてレースについての話は終わり、今度はジョッキーへの個人的な遊び半分の質問コーナーになった。事前に質問を募集しておき、その中からいくつか選んで俺たちに聞くのだ。
だが、いくら一般公募しても、だいたいのパターンは決まっていた。「趣味は何ですか?」「好みのタイプは?」「来年は何勝したいですか?」が三本柱で、これは親父の時代から変わらない「伝統」みたいなものだ。時代が変わっても人間そのものはそうそう変わりはしない、ってことなのか。
俺の番が来た。質問が書かれた紙を持ったインタビュアーの女が、俺の前に来る。
「では、次は片山僚騎手です」
「はい、よろしくお願いします」
俺は気楽に構えていた。三本柱の答えは「そのへんを歩きまわること」「優しくて温和な女性」「目標は30勝」と用意してきた。他に聞かれそうなのは親父のことくらいだが、さっきのトークコーナーでしゃべっちまったから、答えに迷うこともない。
と、思っていたのだが――。
「まず、最初の質問は、千葉県の佐川みゆきさんからいただきました」
……何!?
俺は一瞬のうちに、スポットライトのまぶしさのせいで非常に見にくい客席を眺めまわしてしまった。
みゆき……あの佐川みゆきが、この会場のどこかにいるのかもしれない!
「片山さん、どうかなさいました?」
インタビュアーが俺の顔を見る。
「あ……すみません。どうぞ」
「はい、では質問行きます」
インタビュアーは息を吸い込んだ。俺も同じように、呼吸を整え直す。
彼女は……みゆきは、俺に何を聞きたがっているのか?
「片山僚騎手にお伺いいたします。今、一番叶えたい夢というのは何でしょうか」
叶えたい、夢……?
まったく予想外の質問だったが、その反面、彼女がありきたりなことを聞いてこなかったのが、なぜか嬉しくも思えた。
しかし……叶えたい夢……。
適当に答えるようなことはしたくない。本当に俺が「一番叶えたい夢」を答えよう。それが彼女への礼儀だ。
「……片山騎手、考え込んでらっしゃいます」
別の席にいた進行役の男から、突っ込みが入った。
「これはやはり、質問されたのが女性の方ですからね。『甘い恋をしてみたい』とでも答えて差し上げると喜ばれるのではないでしょうか?」
インタビュアーのセリフに、会場がどっと笑う。
……みゆきも今、どこかで笑ったのだろうか?
よし――。
俺は答えを決め、口を開いた。
C 「とにかくもっともっと成績を上げて、ジョッキーとして成功したいです」