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[総合的な学習・福祉ボランティア][6年][障害者を理解する授業]
「障害者を理解する授業」発問・指示][「手話を学ぶきっかけづくり」の授業の記録][もっと手話を学ぼう
障害者を理解する授業の記録(対象学年 3年生以上

 私が担任した6年生のクラスでの授業記録である。
 3年生以上のクラスで、「総合的な学習の時間」に授業をしていただきたい。

 障害がある人のことをどう思いますか。

 最初にこう問う。
 「大丈夫かな」32人、「大変そうだな」33人、「かわいそう」20人、「なぜそんなふうになったのだろう」8人、「強いな」3人、「どういう気持ちだろう」2人、「すごい」2人、「おもしろい」5人、「不便そう」31人、「ちょっぴりおもしろい」3人。
 授業のスタートはこんな実態である。やりがいがある。

 「かわいそう」という20人の人に聞きます。なぜ「かわいそう」なのですか。

 「自由に動けないから。」「走ったりできない。」

 「かわいそうじゃない」と答えた人の意見を発表してください。

 「『かわいそう』というのは上から見ているような気がするから。」「前、子ども人権集会に参加したときに『かわいそうと思わないでください。』と言ったのを聞いて、かわいそうと思わなくなった。」

 ゲストティーチャーの先生(このクラスは聾者の方に手話を教えてもらっている)が、かわいそうだと思う人は「かわいそう」、かわいそうじゃないと思う人は「かわいそうじゃない」とノートに書きなさい。

 全員が「かわいそうじゃない」と書いた。理由を聞くと、「あんなに楽しそうに僕たちに手話を教えてくれるから。」という意見が出た。

 乙武さんは、みんなは本の世界でしか知りませんが、「かわいそう」かどうか同じように書きなさい。

 これも全員が「かわいそうじゃない」とした。
 ここで、プリントを配った。次のものである。 

 ぼくは、耳が聞こえません。
 1才のときに高い熱を出して、聞こえなくなったのだそうです。
 ぼくは人に話を聞くときは、耳で聞くのではなくて目で聞くのです。これは大変なんです。数の 1(いち)と7(しち)は同じ形だし、他にも難しいことがたくさんあります。
 でも、ぼくは自分のことをかわいそうだとは思っていません。だって、「かわいそう」とか「不幸」 などと思っても、耳が聞こえるようになるわけじゃないから、「これがぼくなんだ」と決めています
 「じゃあ、耳が聞こえる人おんなじか?」
と聞かれると、首をふってしまいます。ぼくにはいっぱい大変なことがあるのです。
                               
                                                                
                           

 まだまだ苦労があります。
 こういうと、やっぱり不幸じゃないかという人もいるでしょうが、ちがいます。
 「かわいそう」とか「不幸」というのは、
                                                                    
のことを言うのです。
 ぼくは、かわいそうでも不幸でもありません。お父さんやお母さんや弟や、いっぱい心のやさしい人に囲まれているからぼくは今、幸せなんです。         (ふれあいの手話3より)
 大変なこととは何だろう。四角に書きなさい。

 「言葉が使えない」「電話ができない」「クラクションやチャイムが聞こえない」「呼ばれても気づかない」「1人1人を見なくちゃいけない」「先生の声が聞こえにくい」「差別される」「時間がわからない。」「補聴器をつけなくちゃいかない」「しゃべれない」「テレビが見れない」などが出された。

 「ぼくには目覚まし時計の音が聞こえません。また、電車やバスなどの放送が聞こえません。」と書いてあります。
 「かわいそう」「不幸」というのは、どんな人のことを言うのでしょうか。四角に書きなさい。

  「いじめられている人」「不幸とか言う人」「手がない人」「自分で不幸と言ってる人」「障害がある人をかわいそうと言う人」「世話をする人がいない人」「路上生活をしてる人」「差別される人」「いじめる人」「何でもマイナスに考える人」「動物」「人に嫌われている人」

 「心がさびしい人」と書いてあります。先生もそう思います。人が見てないところで悪いことをする。
 例えば、くつかくしをする、悪口の手紙を書く、そういう人が心がさびしい人、かわいそうな人だと思います。
 障害は不便である、しかし、不幸ではない。(ヘレン・ケラー)

 これを紹介し、ノートにメモをさせた。

 不便である部分をどうすればいいでしょうか。

 「助ければいい。」という子どもの意見でまとめた。
 感想を一部紹介する。

○ 今日はこういう勉強をしてよかったと思う。私は前、障害のある人を「かわいそう」と思っていた。
   しかし、この勉強をして、少しわかった気がする。だから「かわいそう」と思わず、困っていたら助けようと思う。
   そして、私たちと同じように不便にならないように、いろいろしていこうと思う。

○ 授業をはじめてすぐは、障害者はかわいそうな人だと、私は考えていた。
   耳の聞こえない男の子の話で、私はすごい人だと思った。
   私が障害者だったら、きっと何もかも怖く、どうしてこんなになったのかといやでたまらないと思う。
   しかし、男の子はやさしい心の人に囲まれて幸せだと言っている。私もそう思った。文を読んでも男の子はすごく幸せそうだ。
   でも、障害が不便であることもよくわかる。だからこれからは、障害がある方に少しでも役に立てるように努力したいと思う。
   これからは同じ人間なのだから、かわいそうとかは思わない。自分が障害者でそう思われたらいやだから。

○ 最初はかわいそうと思っていた。あとから、「かわいそう」とか「大丈夫」とかは普通の人の自慢というふうに聞こえてくるようになった。
   かわいそうという気持ちを、全部は無理かもしれませんが、できるだけそういう心を消そうとこの時間で思えるようになったことを本当にうれしい人になったような気がします。

○ 「障害者」は不便そうが、一番に考えられることだ。「かわいそう」とは思わない。だって、かわいそうって偏見だから。
   本当にかわいそうなときもあるけど、そうでないときだってある。だから「障害者=かわいそう」とは思わない。
   私も去年、左手がない人に会うまでは、上記の1人だった。けど、その人が「障害者も健常者も同じ人間だから、かわいそうと思わないでください。」と言われてから、かわいそうと思わなくなった。
   障害は、周りの人々の力でなくせるから、私はそういう人を見たら、助けてあげたいと思う。

文責  東田 昌樹

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