アルサーンスの空の下で                  
 
  第二章  
           
 
 

 ディオは記録盤の表面を、右手で軽く撫でた。文字が盤の中に沈む。代わりに、新たな文章が浮き上がってくる。
『事件詳細。七月十四日。午前五時四十四分。聖僕(せいぼく)の一人、アルトス・ウェルムが、日課である朝の清掃中、転移魔法陣の間にて、被害者が頭から血を流して倒れているのを発見し通報。午前五時五十二分、聖務官三名が現場に到着。被害者の死亡を確認。午前六時三十八分、ファルスよりアルサーンスへ、捜査の全面協力要請』
 だから、何で?
 首を傾げるディオの目の前で、重く分厚い木の扉が開いた。
 何で、俺達に要請が?
 祭壇の左奥にある、聖使徒室に入る。五メートル四方の小さな空間を、一目で見渡す。もう間もなく朝の祈りの時間だというのに、肝心の主の姿がない。ただ、蒼ざめた表情の聖僕達が、佇むのみだ。
 彼ら聖僕達は、聖会に直接所属する者ではない。聖使徒の下、ここに住み込みながら信仰と布教に励んではいるが、魔力を持たない一般人で、皆この町の出身者だ。大きな町になると、聖使徒と共に何名かの道士がビヤンテから派遣されるが、こんな田舎町には、せいぜい一人が送り込まれる程度だ。
 聖会にはれっきとした身分があり、下から道士、聖使徒、聖教士、真修公(しんしゅうこう)、そして聖皇となっている。もっとも、ガリア真教の教えでは、人に身分の差はない。よって彼らは、これらを位とは認めず、単に役職の違いだと説明をしているのだが。実際は、それぞれの立場に応じて、大きく権限が異なっているし、例えば女性は、どんなに魔力が優れていようと、バラザクスに入ることも、聖会で務めることも許されないわけだから、どうにもおかしなこじつけであった。
「ベルナード聖使徒殿は、どちらに?」
 穏やかな声で、バジルが言った。アルサーンス聖務署の中で最も年長の、いかにも温厚そうな容貌の男。実際彼は性格もそうで、ディオはこの一年の間、バジルが怒鳴ったり声を荒げたりするのを一度も聞いたことがなかった。
「それが……」
 静かなバジルの声より、さらに息を潜めて聖僕の一人が答える。
「私達もお探ししているのですが。お部屋にもいらっしゃらず、町へお出かけになったご様子もなく。ただ――」
「うむ。分かった。ありがとう」
 どこまでも優しい声で、バジルが聖僕の声を遮る。フラー副署長と一つ目配せをし、それではと、懐から書類を取り出す。
「この、転移魔法陣使用要請書に、代表でどなたか署名を頂きたいのだが」  聖僕達が顔を見合せ、一番年長と思われる男が、おずおずと前に出た。紙と同時に差し出されたペンを手に取り、迷いつつも自分の名前を記す。一枚、二枚と紙をめくりながら、バジルに指示された所に、ひたすら書き込み続ける。
 今、彼が懸命に名前を記している書類は、仮申請書だ。通常なら、転移魔法陣の使用記録は、全て専用の記録盤に残さなければならない。ただ、この石でできた記録盤には、ペンで文字を書くことができない。何かをそこに記したければ、魔力を使う必要がある。
 とは言え、いくら書き込むことができるからと言って、聖務官が勝手に使うことは許されていない。転移魔法陣は、聖会のものであり、その使用許可を出すことができるのは、聖使徒だけなのだ。
 この厄介な仕組みを見るだけでも、聖会と聖務署との力関係がよく分かる。全国津々浦々、あらゆる場所を自由に行き来するための道を、閉ざされることによる不自由は計り知れない。もちろん、てくてく歩くだけの道、あるいは高い切符代を払っての列車の旅なら、魔力のあるなしに関わらず、誰にでも可能だ。聖務官なれば、自身の魔力を使っての自法(じほう)転移という手もある。だが前者は、そのためにかかる時間、金額が膨大で、後者は費やす魔力が莫大となる。公務に限るとはいえ、自らのサイン一つで、自由に転移魔法陣が使える聖使徒と聖務官との間には、同じ魔力を使う者であっても、大きな隔たりがあった。
 聖僕が施した、合計七箇所にも及ぶ署名を今一度確かめると、バジルはフラー副署長にそれを渡した。早速、転移魔方陣のある地下に降りる。細長い階段をひたすら下り続けながら、ディオは資料をさらに読み進めた。遺体の状況、現場の見取り図などの画像は、とりあえず飛ばす。それらは実際に、今からこの目で見るわけだから、必要ない。ディオが注目したのは、ファルスの町に残された転移魔法陣の記録だった。最後の使用は、今日の未明、午前四時三十八分。利用区間はアルサーンスからファルス。使用許可は、アルサーンス聖使徒アローア・ベルナード。利用者名、記述無し。
 ……記述無し? って、ことは。
「ディオ、早く魔法陣の中に入れ」
 副署長のしゃがれ声に、ディオは顔を上げた。慌てて石床に刻まれた、大きな文様の中に入る。低く副署長が呪文を唱える。
「……ダオ・ザトラス!」
 鋭い声が、目の前の景色を揺らがせる。不安げな表情で見送る聖僕達の姿が消え、石の灰色が滲んで膨れる。しかし直ぐに、それはまたはっきりとした輪郭を取り戻した。同じ形、同じ色。だが、そこに立ち並ぶ人々は違う。濃い緑色の制服を纏ったファルスの町の聖務官。彼らが忙しく動き回る姿が、目に飛び込んでくる。
 大きく長い溜息が、ベッツの口から漏れた。ディオは振り返り、強く眉根を寄せたベッツの横顔を見た。そして、彼の視線の先に、目を転じる。
 こいつは……。
 しばらく言葉をなくす。そして、
「……ひどいな」
 ベッツ以上に顔をしかめ、ディオはそう息をついた。と同時に、自分達がここに呼ばれた二つの理由を知る。
 一つはすでに察しがついてた。あの転移魔方陣の記録。アルサーンスからファルスの町へ。最後にこの場所を訪れた者が、我がアルサーンスの者であることは間違いない。その時、この目の前の聖使徒は生きていたのか、死んでいたのか。生きていたとしたら、その者はそんな時間に、ファルスの町を訪れ何をしようとしていたのか。死んでいたとしたら、その者はなぜ、すぐに事件を通報しなかったのか。いや、そもそも、その者とは誰なのか。まあそれも、転移魔方陣の記録から予想はできるが、今は――。
「わざわざご苦労様です」
 緑の制服の、まだ若い聖務官が、副署長にそう挨拶する。
「早速ですが」
「ああ、分かっている。ディオ・ラスター」
 フルネームで呼ばれ、ディオは小さく踵を鳴らして直立した。
「はい」
「頼むぞ」
「はっ」
 短く答え、遺体に近付く。聖使徒の青い衣に包まれた、頭部がぐちゃぐちゃに潰されている男の下へ行く。

 
 
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  第二章・2