アルサーンスの空の下で                  
 
  第二章  
           
 
 

 もう一つの理由は、これだったのだ。例えば胸や腹を刺されたとか、首を締められたとか。そういう殺人なら捜査は簡単だ。各町村の聖務署には、必ず心眼を持つ者が配置されている。すなわち、相手に触れ、その脳に刻まれた記憶、思念を読み取る力を持つ者達が。
 心眼者の力があれば、たとえ死者でも、脳に大きな損傷がない限り、そこから情報を引き出すことができる。無論、体の死と共に脳の細胞は死滅する。呼吸が止まってから七分程度でほとんどが、十五分も過ぎれば、もはや生き残っているものはないだろう。しかし心眼者達は、そんな死せる細胞からも、記憶を引き出すことができるのだ。ただし、全てではない。読み取ることができるのは、被害者の最後の記憶。脳の神経細胞が、死ぬ間際に結んだネットワーク、その道筋を、死後二時間くらいまでの死体なら、彼らは見極めることができる。もしその死者が、犯人の顔なり、声なりを、死の直前に見聞きしていたとしたら。即、逮捕に繋げることができるというわけだ。
 しかし、この捜査方法は、広くみんなに知られている。当然犯人は、殺害後、証拠隠滅をはかることとなる。もっとも、口で言うほど、実行は楽なものではない。原型を止めず、細胞の一つ一つを残らず潰す。その過程を想像するだけで、ディオなどは背筋が寒くなるくらいだ。
 しかし、今回の事件の犯人は、どうやらそれほどの苦労はしなかったようだ。魔力で一ひねり、頭はそうやって潰されていた。これでは、心眼者といえども、死者から何も聞き出すことはできない。だが、自分は――。
 ディオは、期待に満ちた視線が背に降り注ぐのを意識して、きつく唇を結んだ。緊張した面持ちで、遺体の側にしゃがむ。そっと、両の手の手袋を外す。
 ディオにも、心眼の能力があった。いや、心眼の一種とされてはいるが、根本的な仕組みは違った。彼の能力は、物から記憶を探ること。と言っても、物が何かを記憶しているわけではない。心眼者が捉えるような神経細胞など、物にはない。ディオが感じることができるのは、存在の痕跡だ。例えば人一人、この部屋に立つだけで、辺りの空気は何もない時とは異なる。その者の体温を受け、呼吸を受け、ほんの少しだけ気の流れが生じる。声を出せば、波動が起きる。そしてそれらの変化が、わずかだけ物に残る。ちょうど、この死体から溢れ出た血が、床や壁に染みついているように。
「では、行きます」
 ディオの声に、バジルが新しい記録盤を持って横に立つ。その記録盤に右の掌をあて、ディオは深く息をついた。
 特心眼(とくしんがん)と呼ばれる自分の能力が、捜査に役立つことは素直に嬉しい。わざわざファルスの連中が協力要請してくるほど、評価されていることも誇らしい。でも。
 慣れないんだよな。いつまでたっても。
 心の中で小さく呟くと、ディオは気合と共に左手を石床につけた。
 全身を、痺れるような痛みが貫く。体の芯が、かあっと燃えるように熱くなる。高熱に晒された時のように意識が混濁し、自分は立っているのか、座っているのか、どこにいるのか、何をしているのか、分からなくなる。
 がつんと頭の中に、衝撃が走る。瞬間的に、真っ白になる。そこに、叩きつけるように、映像が流れ込む。
 闇
     燭台
             約
  時間
         影
     黒
              娘
   死
 ルダ
    ルダ
        ルダ、ルダ、ルダ――。
「ディオ!」
 短く速く息を吐きながら、ディオは虚ろに目を動かした。自分を抱かかえるバジルの心配そうな顔を認める。大丈夫だという意思表示を、口元を緩めることで為そうとする。が、気持ちに反して、それは引き攣ったような動きにしかならなかった。
「よくやった、ディオ」
 しわがれ声が、頭上高く響く。
「すぐに分析を始めるぞ」
「では、上の聖使徒室をお使い下さい。準備ができておりますので」
「分かった」
 声をかけてきたファルスの町の聖務官にそう答えると、副署長はディオを振り返った。
「動けるか」
「は……はい」
 バジルに支えてもらいながら、立ち上がる。まだ微かに震える手で手袋をはめ、ほっと息を継ぐ。
 この白い手袋は、制服、制帽と共に署から支給された物で、聖務官なら誰でも所持しているわけだが、ディオの物は少し作りが違っていた。見た目は全く同じ。しかし、その表面に特殊な魔法、あらゆる気を遮断する魔法が練り込まれている。いわば、気の絶縁体だ。これがなければディオの場合、何かに触れる度、さっきのようなことが起る。こちらから強く気を送り込むことで、他意識の侵入を防ぐ方法もあるにはあるが。ディオ程度の魔力では、せいぜい五分くらいしか持たない。
 よって、勤務中はもちろん、休みの日、私服で町に繰り出す時も、ディオはこの手袋を外さない。服装によっては、かなり奇妙な格好を強いられることとなるのだが、背に腹はかえられない。安心して、素手でいられるのは自分の家の中だけ。そこにある物には、全て特殊なコーティングが為されているのだ。すなわち、いかなる気も残さないという、特別な処置が。
 俺の部屋って、思いっきり完全犯罪向き……かも。
 そう考えて苦笑する。ようやく、ディオの口元が少し緩む。それを見て、バジルがぽんぽんと二度、肩を叩いた。
「ディオ、お前は隣りに座れ」
 細い螺旋階段を上がりきったところで、副署長の声が飛ぶ。
 聖会の内部は、どこも同じ造りだ。転移魔方陣のある部屋の上が、聖使徒室となる。大きさも、アルサーンスにある物と変わらない。その狭い空間に、椅子が並べられる。東側の壁面に吊り下げられた白い布の方に向けて、三つずつの列が作られる。
 副署長は列の最前、ど真ん中に座った。命令に従い、署長の横にディオも腰を下ろす。反対側にはファルスの町のカーディナー署長。会うのは初めてだが、彼の身分は襟の徽章が示しているので、それで間違いはないだろう。後方の空いた椅子にも、聖務官が座っている。ファルスの町からの残る三人、同じくアルサーンスの残る三人。そのうちの一人、ベッツが立ち上がり、椅子の後ろに設けられた像映機の(ぞうえいき)側に立つ。手に持った記録盤、ディオが特心眼によって得た情報が入った盤を、機械にセットする。

 
 
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  第二章・3