それから三百年あまり、キーナスは平和であった。相変わらずラグルとの小競り合いはあったものの、国と国がぶつかるような大きな争いはなかった。先の和平で三国の協力のもと、エルティアランを封印したことが効を奏していた。封印といっても、ただエルティアランから人を排し、その状態を三国の代表者で監視するという単純なものである。しかしそれでも、エルティアランに対する恐怖を和らげる効果は十二分にあった。それぞれの心の奥底で、野心の火はぷすぷすと燻り続けてはいたものの、アルビアナ大陸は穏やかな時を保ち続けていた。
だが……。
甘やかな眠りを引き裂く春雷のように、突然それは訪れた。フルミア歴一一一七年。フィシュメル国の西の大海、クィード海沖に黒い影が立ち並ぶ。遥かユジュール大陸の強国、トノバスの軍船。海軍力に劣るフィシュメルは、瞬く間に海岸沿いの町をトノバスに落とされた。それでもその一撃を凌ぐと、大陸随一との定評ある歩兵部隊が、持ち前の堅固な力を発揮し、さらなるトノバスの侵攻を阻んだ。そして、盟友であるキーナスとオルモントールの援軍を待つ。
その時すでにキーナスは、東のトルキアーナ海よりパペ族で編成された海軍を、クルビア山脈を迂回し北の街道回りで騎士団を、それぞれ出撃させていた。しかし、フィシュメルまではいずれの経路も距離がある。ダファン河を越えるだけであるオルモントールからの援軍の方が、先に着くと思われた。が、先に着いたのはキーナスの騎士団であった。とはいっても、オルモントールの援軍が、遅延したという訳ではない。ただ、進む方向が少しばかり違っていたのだ。彼らは北西のダファン河には向かわず、そのまま真っ直ぐ北上した。キーナスの王都、ブルクウェルを目指して。
このタングトゥバ(フィシュメルが最初に攻撃を受けた港町の名)の大戦で、後にその名を騎士団に残す二人の英雄が生まれた。
一人は、ペールモンド・タム。フィシュメル遠征軍の総指揮を取るこの彼の元に、オルモントールの裏切りが知らされたのは、ちょうどフィシュメルの王都、カロイドレーンに入った時だった。フィシュメルを救うため、軍の大半が出払ったブルクウェルには、十分な兵力が残っていない。だがこの自国の危機に、彼は迷わず、このままトノバスと戦うことをフィシュメル王に告げた。取って返してオルモントールを退けたとしても、今度はフィシュメルが、あるいはトノバスが、新たな脅威となってしまう。それに、ブルクウェルにはロイモンドがいる。自分の弟が。ロイモンドなら必ずや、王都を守りきれるはずだと。
ペールモンド率いるキーナス軍は、鬼神のごとく、猛然とトノバス軍に襲いかかった。最初の勝利を収めてから七日とたたぬうちに、トノバス軍を海岸線まで押し戻した。無論、沖にはトノバスの黒い大きな船団が待ち構えていたが、それらとの激しい攻防も、キーナス海軍が到着するまでのことであった。
沿岸用に機動力を重視したキーナス海軍の船は、次々とトノバス船団を沈めていく。それほど時をかけずして、戦いは終わった。キーナスとフィシュメルの勝利。そして同じ頃、ブルクウェルでも勝利の歓声が上がっていた。
ペールモンドが信頼した通り、もう一人の英雄ロイモンドは、少ない兵力ながら強固に城を守りきった。さらに、これまでいかなる戦いにも無関心であったスルフィーオ族の説得に成功し、彼らを中心とした奇襲部隊が、オルモントール軍を退却に追い込んだ。
この大戦を機に、キーナスとフィシュメルは深い絆を結ぶこととなる。一方、オルモントールとの間には、修復しがたい溝が残った。
その後も、戦いは断続的に起こった。もちろん、キーナスの民が、あるいは王が、それを望んだわけではない。しかし、エルティアランを有する以上、彼らはその宿命を受け入れなければならなかった。自らエルティアランに触れぬこと、そして、挑まれた戦いにことごとく勝利すること。それしか、存続の道はなかった。
そして、今……。
そのエルティアランを見下ろす丘に、一万余のキーナス軍の姿があった。風が咆哮を上げる。世界が大きく動こうとしていた。