四
「お待ちなさい」
澄んだ音が響いた。囁くような声なのに、不思議とよく通る。月の光の下でのみ咲く花のような、人も踏み入らぬ山奥に眠る湖水のような、そんな質の輝きが含まれている。
「今の言葉を、もう一度」
バルコニーに立つ兵士を押し止めた声が、ユーリに語りかける。その声がなければ、兵士は大声で、侵入者の存在を中庭に向かって叫んだであろう。
ユーリは後頭部に残る鈍い痛みを振り払うように、一つ首を振った。顔を上げる。そして、同じ言葉を繰り返す。朗々と謳うように、言葉を紡ぐ。
翼を持つ者の幸せを、私とあなたは知っている
たとえ大樹の根元に囚われた、苔むす石であったとしても
輝く星の喜びを、あなたと私は知っている
たとえ乾いた井戸の底にある、一滴の澱みに過ぎないとしても
私は知っている
あなたの心のうちにあるものを
あなたは知っている
私の心が、あなたと共にあることを
今度は、最後まで言えた――。
そう、声に出さず呟くと、ユーリはまた軽く首を振った。じんとした痛みは、まだ消えない。
国妃の部屋に転がり込むようにして入ったユーリは、跪き、今言った言葉を並べた。左右から兵士が迫ってきたが、それには抗わず、ひたすら言葉を続ける。腕を取られ、肩を押さえられ、さらに「黙れ!」と怒鳴りつけられる。強い衝撃が後頭部に与えられ、続けざまに背や腹にも痛みが加えられる。さすがに息がつまり、言うべき言葉の半分もいかないうちに、ユーリは床に組み伏せられた。
「あなたは……一体?」
椅子に座し、中庭を向いたまま、微かに声を上ずらせてウルリクは言った。立ち上がり、振り向けば、中庭の者達に異常が悟られてしまう。配慮の上での、背中越しの声であった。
豪奢な椅子に向かって、ユーリが答える。
「僕――私の名は、ユーリ・ファン。アルフリート王の命を受け、ここに参りました。ブルクウェルの王ではありません。今はキリートム山に御身を置く、真の王の命で」
肘掛に置かれた白い手が震える。が、その残像が、すぐに床の色一つに染められた。
「何をわけの分からぬことを、痴れ者めが!」
頭を押さえつける手に、さらに力が込められる。ひんやりとした乳白色の石床が、ユーリの頬を強く圧する。
「お止めなさい」
ウルリクの声に、凛とした響きが備わる。腕と肩はまだ解放が許されなかったが、頭に自由が戻る。ユーリは再び顔を上げた。
背もたれの端から、金色の煌くウルリクの髪が覗く。アルフリート王のそれと比べると、少し濃く、暖かみを帯びた色だ。その髪が、もどかしそうに揺れる。
「その者と……話がしたい。もう少し、側へ」
「ウルリク様!」
諌める意を込めて、バルコニーの兵士が叫んだ。が、清とした響きが、その荒々しい音を包む。
「心配はいりません、ナートス。その者は、紛れもなく王の使い」
「ですが、その王が」
信用できぬのです。
という言葉を、ナートスはかろうじて呑み込んだ。どんなにそう思っても、間違いのない真実としてそれを感じていても、国妃の前で言葉にするのは憚られた。誰よりも、ウルリク様ご自身が、そのお気持ちを打ち消すことができずにいらっしゃるのだから。
ナートスは、侵入者を押さえつけているニ人の兵士に、目で合図を送った。渋々ながら、兵士はその命に従った。だが、命を下した者も気持ちは同じであった。
この男、一体何者?
自由の戻った両腕を労わるように摩る蒼き騎士に、強い視線を送る。立ち上がり、四歩進み、国妃の後方で再び跪く姿を、睨めつけるように見る。
武器も持たず、たった一人で。しかも、意味の分からぬ言葉を並べたてて。いや、意味はあった。少なくとも、ウルリク様にとっては、大きな意味が……。
ナートスは、白く輝く国妃の横顔を見つめた。横殴りの雨が、屋根のあるこの場所まで入り込み、その頬を濡らしている。だが、そこに翳りはない。この離宮に下がって以来、常に漂っていた憂いの色が消えている。心の核に、確かなものがある。そういう、強い横顔だった。
その顔が、少し傾く。
「ノルチェ」
ウルリクの左手が、優雅に流れた。
「手鏡を、ここへ」
「は……はい、お姫さま」
突然の侵入者に、ただ驚き、立ち尽くしていたノルチェに時が戻る。慌しく純白の衣装箱に駆け寄ると、中を弄る。かなりの時間をかけ、ようやく銀の縁飾りのついた鏡を手にすると、また慌しくウルリクの元に戻った。
ウルリクの白い手が、銀の鏡を持つ。その鏡が向きを変えるたび、ひらひらと蝶のように光が舞う。扉、床、ニ人の兵士。戯れるように迷いながら、少しずつ目的の場所に近付く。膝、胸、そして肩。リル色に染まった鏡が、一人の若者を映す。
この騎士が、アルフリート様の……。
この御方が、アルフリート王の……。
菫色の瞳と漆黒の瞳が、鏡を通して互いを捉えた。想いが、飛ぶ。