蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十一章 氷壁の乙女(3)  
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 あれだ……。
 ユーリは、視線の先を凝視した。柱の下方、その中心にある小さな光に意識を向ける。とても弱い、とても細い、今にも消えてしまいそうなそこに向かって、手を伸ばす。ユーリの周りで柔らかく気が流れ、その身が少しずつ、光に近付く。
 静かに、ただ時が止められただけのように、体が止まる。目的のものに対峙する位置で、ユーリは浮遊していた。伸ばした右手が、いったん躊躇するように、腰の辺りまで戻る。だが、漆黒の瞳は迷うことなく、目の前のものを見据えていた。
 銀白色の長い髪が、うねるように靡いている。滑らかな褐色の肌は、黒味を帯びてぴんと張り、内に命の輝きを宿している。ほっそりとした手足はしなやかに、気の流れの中で揺らめき、その身を包む純白の衣が、舞うように翻っている。
 それは、少女だった。女性と呼ぶにはまだ少し早い、さりとて子供でもない。そんな時の中にいる少女だった。
 これは……。
 ユーリは目を閉じた。あらゆる感覚を一つに束ねる。全身を使って、それを高める。
 そうか……そういうことか……。
 ユーリの唇が、小さくそう動いた。その吐息に乗せて、一気に意識の翼を飛ばす。
 飛び出した意識は光となって、柱の隅々までを照らした。一欠けらの影も残すことなく、あまねく光で満たす。そして、そっと包む。
 ユーリは深く息を吸い込んだ。しなやかに光が収縮する。大切に抱え込んだものを携えながら、ユーリの肉体に戻る。
 その存在の、あまりに小さく儚いことに、ユーリは驚いた。その目でそれを見つめる。そしてその目で、あるべきところにそれを戻す。
 瞳の中に、少女の姿が映り込む。一瞬、ユーリの顔に戸惑いの色が浮かぶ。視線が乱れ、泳ぐ。迷うように俯く。だが、再びユーリは顔を上げると、真っ直ぐに少女を捉えた。力強く、意思を持って、彼女を見る。
 微かに……。
 少女の睫が震えた。そして緩やかに、その目が開かれる。露に濡れた赤葡萄のような瞳が、強くユーリを射る。
 意識の底で、何かが弾けた。
 流れを感じる。四肢の隅々までそれは行き渡り、瞬く間に全身に染みる。心臓が、必要以上の速度を上げ、大きく胸板を打つ。互いに吸いつくように絡み合った視線の中で、空間が硬直する。
 頬が熱い……息苦しさを覚えるほど、頬が……。
「……あっ」
 声とは言えないほど微かな音を、ユーリはその唇から零した。ひんやりとした感触。自分の右頬に当てられた少女の手。だが、その心地良い冷たさは、すぐに弱まる。頬の熱が、少女の手を伝い、同じ温もりを共有する。
 ユーリは、右手をゆっくりと動かした。頬に添えられた少女の手に、それを重ねる。共に同じ熱を帯びて、一体となる。心の外輪が触れ合う。
 赤味を帯びた濃い紫色の瞳が、きらりと輝いた。
「うわっ」
「くっ」
「おお」
 起きた瞬間、声はなかった。事態を把握するまでに、若干の時間が必要だった。岩の柱を伝い下りていたテッド達がそう悲鳴を上げた時、彼らはすでに空中へ投げ出されていた。
 音もなく、木端微塵に砕けた岩柱が、ダイヤモンドダストのように煌き散る。光り輝くクリスタルの雨の向こうで、少女を抱くユーリの姿を認める。彼らもまた、落ちていた。自然の摂理に従い、容赦なく地を目指す。
 耳元の風が唸りを上げる。無数の欠片が地に落ち、砕ける音が、そこに重なる。
 だめか――。
 不思議と穏やかに、テッドは思った。他人事のように、自分の行く末を判断する。そして、その時が来るのを、目を閉じて待つ。
 がくんと強い衝撃が、全身を貫いた。だが、それは予期していたのものと違っていた。地に叩きつけられたのではなく、むんずと上からつかまれたかのような感覚で、体は止められた。その急ブレーキの反動が、体に強い痛みを与えたのだ。
 目を開ける。天が遠い。顔を横に向ける。あるべき地がない。さらに首を捻る。地面が、ほんの一メートルほど先に見える。
 時が……止まった?
 そうとしか考えられない光景に、テッドは体の痛みを忘れた。
 柱の欠片が、そこら中で輝いている。下にも、上にも、止まったまま光っている。自分より、少し右の方向には、ミクの姿がある。くるっと体を丸めた状態で浮遊している。その斜め後ろにある影はレンダムだ。こちらは大の字になって、地面に突っ伏す姿勢で漂っている。顔は引き攣り、体は硬直しているが、目だけは忙しなく動いている。
 その目と、テッドの目とが合った。
「うわっ!」
 と声を上げると同時に、それが呻き声となる。急に時が戻り、テッドは地に叩きつけられた。すぐ側で、ミクの落ちる音が響き、何かを喚きながら落ちてきたレンダムも、その体全体で着地した。柱の欠片が夕立の音を奏で、地に落ち跳ねる。その雨にしたたか打たれながらも、テッドは片膝を立てた。
「……柱が……」
 絶望が、声となる。そのまま、雨の止んだ天を仰ぐ。
 外への道であった柱は、見るも無残に崩れてしまった。その残骸が、堆く山を作っているが、天には届きそうにない。無数とも思える欠片の煌きが、空しくテッドの瞳を刺す。そして、その光の中心に、ユーリは佇んでいた。魅入られたように、腕の中にある者を見つめている。
 濃い褐色の肌。赤味を帯びた紫色の瞳。銀糸のような長い髪は、柱の欠片よりも豊かな光を放っている。
「あれは……誰だ? なんか、どっかで見たような」
「テッド!」
 小さく鋭い声と共に、ミクがテッドの腕をつかんだ。その顔が、強張っている。
 テッドはもう一度、少女を見つめた。どこから風が吹いてくるのか、銀の髪が流れている。柔らかくうねり、すっきりとした顎の輪郭が露となる。少しふっくらとした耳たぶ、その先を、きゅっとつまんだかのような、細く、尖った……。
 テッドとミクは大きく息を呑み、互いに顔を見合わせた。そして、同時に呟く。

「エル……フィン……」

 

 
 
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