「いよいよですね」
不快に思うほど軽いサドートロの声が、天幕を翻す音に重なる。軽く眉をひそめ、シオが振り向く。
「敵は八千。対する我が軍は、たったの千五百。我が援軍となる本隊の到着は、奇跡でも起こらない限り、戦いが終わった後となるでしょう」
そこでサドートロは、口元だけに笑みを浮かべた。
「はてさて、一体どのような魔術を見せて下さるのか、楽しみです。勝利の神が、私の思う方とは別の方の頭上に、冠を掲げなければ良いのですが」
シオは、唇に意図的な弧を施した。満面の笑みで、サドートロの言葉に答える。
「デンハーム王は、幸せなお方だ。貴殿のような忠臣をお持ちになられて」
そこでシオは身を翻し、再びサドートロに背を向けた。地図を睨む。その姿勢のままで言葉を放つ。
「だが、貴殿がその忠義を示す機会は、後ほんのわずかな時間に限られる。速やかに軍を率いて本隊に合流するためには、今この時をおいて他ならない。追撃を受け、多少の被害は被るかもしれぬが、全てを失うより増しであろう。もっともそのためには、今ここで私の背に、剣を突きたてねばならぬがな」
冷えた静寂。おもむろに、サドートロが言う。
「……そうですね」
声から、一切の軽さが消える。
「少し、遅過ぎたようにも思いますが」
背後の空気が張り詰める。それをひしひしと感じながら、シオはなお、地図を見つめた。
時間稼ぎ。という本来の目的は、シオを始め軍の上層部のみが知ることであった。つまり、ほとんどの者にとってこの戦いは、純粋に侵略してきたキーナスとの争いとなる。そのため、作戦を遂行する上で、様々な弊害が生じた。例えば本隊の進行を遅らせてまでリブラ軍を誘い込むことに、なかなか納得が得られない。西の砦を死守しつつ、一刻も早く本隊をそこへ向かわせる。勝つためには、それが最も正しい選択だ。なのに、何ゆえシオ殿は、あのキーナスの策士は、このような策を講じるのか。それらの不満が滾る前に、サドートロが代表する形で、シオに対した。
その時シオは、地図から思いもよらぬ発見を得ていた。東の砦、その上方に、古い金鉱石の採掘場が残されていたのだ。険しい山に切り開かれた高台。南にうねるように続く細い道も残されており、これは、キーナス側にはない情報であった。よってシオは、リブラ軍を追い出した隙に、西の砦の兵の一部を、その採掘場跡に移動させることを提案した。まさか、上から攻められるとは、思いもよらぬだろう。より確実な勝利。それを理由に、シオはサドートロを論破した。
次にぶつかったのは、本隊との連携だった。膠着状態が続いたその時、サドートロは本隊の遅さに不満を漏らした。南に下りつつの睨み合いの中で、中州までの距離をしきりに気にした。予想よりも近い。一気に抜かれると、危険である。そう、主張した。
しかしそれは、シオも同意するところであった。思ったよりも、中州に近付き過ぎている。だが、まだ時が足りない。もう少し、リブラ軍の足を止めておきたい。後一日だけ。その判断が、明暗を分けた。その一日で、今度は引くに難しい距離となってしまった。
小さな金属音が、後ろで鳴る。サドートロの気配が、半歩にじり寄るのを感じる。
いい目を持っている――と、シオは思った。状況を的確に判断できる。戦局を読む力もある。軍師として、才のある若者だ。だが、今、ここで引くのは……。
背後の気配が、さらに一歩迫る。と、あっけなく、その緊張が切れる。前にも増して、重さを持たないサドートロの声が響く。
「やっぱり、止めておきます。どうも、私の柄じゃない」
「後ろからというのが気が引けるのであれば」
シオが振り向く。剣を抜いて立つサドートロに、その胸を張る。
「これでどうかな?」
「そのくらいで、勘弁して下さい」
サドートロは肩を竦め、剣を納めた。
「先ほどの、あなたに対する不信の言葉は撤回します。どうも私は小心者で。その辺りも、お見通しだったのでしょう? 私の提案が王への忠誠から来るものではなく、我が身可愛さから出たものであるのを」
シオの口元に微笑が浮かぶ。むしろ、好ましさを加えた目で、サドートロを見る。その視線の前で、サドートロはなお軽快に、口を動かした。
「大局を見れば、今ここで引くのは愚策です。我らが闇に紛れて逃げたとあれば、キーナス軍は川を渡り、そのまま北へ向かうでしょう。懸命に追いかけてきた残りの兵を蹴散らし、橋で待機していた者達も倒し、そのまま東の砦に戻る。今ここで千五百を失うより、多くの命が消える。まあ、もう少し前に逃げていたなら、状況は変わっていたでしょうが。おっと、決戦を前にして、これは禁句ですかな。逃げるなどという言葉は」
やや皮肉っぽい笑みを投げかけてきたサドートロに、シオは静かに答えた。
「戦場では英雄でいるより、そうでない方が長生きができる」
「いい言葉ですね」
サドートロは笑った。
「私の性に合っている。せいぜい長生きできるよう、心がけることにします」
そう言うと、サドートロは軽く礼をした。そして、踵を返す。
――なっ。
サドートロは、危うく声を出すところであった。辛うじて踏み止まったのは、彼の矜持の為せる技であった。背筋に伝わる汗を意識しながらも、精一杯の笑みをその顔に施す。
「これでも……腕に覚えはあったのですが」
そろりと、その顔を横に滑らせる。喉元にぴったりと突き付けられた刃から、逃れる。
サドートロは、そのまま二歩後退し、鈍い銀色の腹を見せる剣と、間合いを取った。
気配はまるで感じなかった。音を立てずに忍び寄る、などという段階の話ではない。漲る殺気。剣先から、渦を巻くように発せられる殺気まで、見事に消し去っていたこと。それが何より恐ろしかった。
こんな人間は見たことがない。ただそこにあるだけで、相手の動きを封じてしまうような気を、無の状態まで押えこめる。そして一瞬で、それを極限にまで高める。そんなことが、この男にはできるのだ。ベーグ・ロンバードという、老騎士には。
「言ったろう?」
シオの冴えた声が、背後で響く。
「貴殿は長生きができると」
サドートロは、もう笑みを浮かべなかった。その空間に、押し出されるようにして身を進める。振り返り、礼をし、幾分意識的に立てられた足音と共にその場を去る。遠ざかる音が、すっかり耳に聞こえなくなったのを待って、ロンバードは剣を納めた。
そこに、シオの声がかかる。
「川は?」
ロンバードの首が、静かに横に振れる。
「そうか」
シオは小さく呟くと、眉間に皺を寄せた。だが、すぐにそれを払い、ロンバードに向かって微笑を見せる。
「では、別の手を打つしかありませんね。せっかく追い払って頂いたところ、申し訳ないのだが。すぐにサドートロを呼び戻して下さい。もう、あまり時間がない」
一礼をし、部屋を出たロンバードの背を見送るシオの表情が、厳しく締まる。だが、逆にその険しさが、シオの瞳に強い輝きをもたらした。
時は満ちたり。
シオの唇が、力強く、そう模った。