蒼き騎士の伝説 第四巻                  
 
  序章 波涛を越えて  
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 <波涛を越えて>

 空が深い。
 翳りのない、揺るぎのない青。力強い輝きは、ともすれば厳しく、戒めるような印象を持つ。だが、それを見上げるミクの心は穏やかだった。
 短く切り揃えられた赤い髪が、柔らかくなびく。冴えたグリーンの瞳が見つめる先で、うねる波涛が光を撒き散らす。
 カトロンの港町を発ってから、四十日。ゼンクト号は文字通り、順風満帆な航海を続けていた。この時期、東から西へむかって吹く風にいち早く乗るため、船長ゼトスは、オルモントール国沖をぐるりと超える、南回りの航路を取った。対立する国の鼻先を掠めていくことに、不安を覚えたミク達ではあったが。北の海は荒れる日が多いこと、オルモントール国の海軍力が、キーナスより一歩も二歩も遅れていることを踏まえた上での判断と知り、納得した。
 強い風が、髪をなぶる。白い帆が、その風を抱き大きく膨れる。ミクはそれを眩しげに仰ぎ見ると、懐からパルコムを取り出した。現在地が、光点となって記される。緯度、経度とも、百分の一秒までを正確に弾き出している。まさに、文明の利器。このお蔭で、ミクは迷信深い船乗り達に、しぶしぶながらもこうやって甲板に出ることを許してもらった。
 船乗り達の信じる海の神は、女神であった。気まぐれで、嫉妬深い海神ハルネディアは、彼女の領域である海に、自分以外の女性がいることをひどく嫌うのだそうだ。サナはなんとか子供に見えるということで、男の子の格好をするだけで許されたのだが。ミクは危うく、航海の間中、船室に閉じ込められるところであった。
「よお」
 船員の一人が、声をかけてきた。浅黒く、日焼けした顔で、ミクを見上げる。逞しい体つきだが、背はミクの肩ぐらいまでしかない。それでも、同種族であるキュルバナンの民に比べ、パペ族は一回り以上大きい。
「ちょっと、ハルネディアの目を見せてくれ」
 そう言いながら、パルコムを覗き込む。興味深げに光の点を見つめ、示された数字に大きく頷く。そして、操舵手に向かって声を張る。
「順調だ。そのままハルネディアの指が指す方向を目指せ」
 ゼンクト号には、この小さな海の民が多数乗り込んでいた。船長を始め、船を操る立場にある者はみな、パペ族だ。船には他に、兵士、船大工、樽職人、縫帆手などの技術者も乗っていたが、それらもほとんどがパペ族であった。キーナス海軍のレベルの高さが、この種族によって支えられていることを目に見て感じる。しかしそれでも、ミク達の持つ技術とは、大きな隔たりがあった。
 ハルネディアの女神を恐れる理由は、何も荒れた海だけを指すわけではない。うんともすんとも動かぬ海。風に恵まれぬことも、等しく恐怖であった。そしてもう一つ。「ハルネディアの指」、すなわち羅針盤に見放されること。方向を失い、進むべき道を失い、一面の海の上で迷うことであった。
 羅針盤は、地磁気の偏差によって、どうしても狂いが生じる。よって主として彼らは天体観測、太陽観測で方向を探った。もちろんそれらも、絶対的な精度はなく、海が荒れようものなら、全く計測不能となってしまう代物だ。それでも、方向と緯度だけは、何とか確保した。だがまだ、経度が残っている。
 確かに経度も、太陽観測から導き出すことは可能だ。正確な時間、そして正確な高度を測ることさえできれば。だが、彼らにとって、特に正確な時間を得るのが、至難の技だった。
 パペ族の民は、船に香時計を持ち込んでいた。これは、キーナス内陸にはなかったものだ。他に時間を測る道具として、砂時計があったが。いずれも、正確さに欠けた。たった一秒の狂いでも、数百メートルの誤差となってしまうことを考えれば、この方法での計測は無意味であった。
 そのため彼らは、船の速度と航海日数から距離を割り出し、経度を測った。しかしこれも、かなりいい加減なものだ。日数はともかく、船の速度を正しく測る術など、彼らは持ち合わせていなかった。
 つまり、あらゆる知識を駆使しても、最終的には女神の機嫌を取らざるを得ない。彼らは、そういう状況下にあった。そしてそれを救ったのが、ミクのパルコムだった。

 
 
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