蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十三章 祭礼(3)  
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      三  

 春の陽射しは、まだ弱かった。少しずつ増えてきた雲の全てを振り払うことができず、午後になっても地表は冷えたままだった。それでも昨日のように、激しく吹き荒れる風がないのは救いだ。そう自分を慰め、ユーリはアカゾノ殿の前庭に向った。
 長身の、シャン国王の側に並んで立つ。呼吸を合わせ、跪く。細かな白砂が敷き詰められただけの、広い庭の中央。そこに設けられた試合場を前に、一礼をする。
 試合場といっても、板が組まれていたり、何かに隔てられているわけではない。ただ、朱色に染められた細い棒切れで、一辺十メートルほどの四角形を区切り取るように、地に細い溝が刻まれているだけだ。しかし、どうやらその棒切れに深い謂れがあるようで、子供が地面に落書きするのとは違い、記された溝には特別な意味が与えられていた。地界と天界の境界線。つまり溝の向こうは、地上にありながら天空の領域と見なされていた。
 その神聖なる場所に入ることができるのは、白装束に身を包んだ審判を務める神官と、二人の武人のみ。土足で踏み入ることは許されず、素足となり、さらに身を清めることが要求される。エトナシマサという常緑樹の小枝を、アカゾノ殿内にある井戸の涌き水に浸し、その雫を神官に頭からかけてもらう。ばさりと小枝が振られる度、身を縮めるような冷たさが頬や首筋にかかる。
 どこに設置されていたのか、大きな銅鑼らしき音がそこで響いた。呼応するように、群集から期待の声が上がる。
 ウル国王始め、サナ達の座る貴賓席は、本殿側に設けられていた。そのさらに北には奥の殿。先ほど、舞と楽とが奉納された場所がある。門から本殿までは常時、庶民にも開放されており、建立したばかりという目新しさも手伝って、連日多くの参拝者で溢れ返っていた。このアカゾノ殿に祭られている天神は、人の姿が与えられていないため、像の類は飾られていないが。神の住まいを模したとされる縦横五メートル、高さ三メートルほどの白木細工の社が本殿内に置かれており、人々はそこに向って祈りを捧げた。
 白木に施された細やかな彫りに、神への信仰の厚さが伺える。常に開かれた社の扉に、この神がいかに懐の深い神であるかを知る。本殿前に置かれた銅でできたゴブレットのようなものを、備え付けの細い木の棒で一叩きするだけで、天界から社に降り、人々の声を聞くという仕組みに、土着の神ならではの気安さを感じる。
 もちろん、本殿に上がり間近で拝んだり、不浄なる口を開いて、つまりは声に出して願い事をしたり。神官によって毎日掃き清められる白砂の前庭を、突っ切って本殿に向う等々、してはならない決まり事はいくつもあるようだが。こうして御社の前で、一段低い位置とはいえ、形としては尻を向けて並ぶことを許すあたり、やはりこの神は寛大だといえよう。
 いや、今は。
 ユーリは空を見上げた。
 銅の呼び鈴を鳴らしてはいないのだから、神はまだあの雲の上か。
 白装束の審判が背を向け、聖域に踏み入るのを認め、ユーリは一段と気を引き締めた。
 審判に続き、シャン国王と共にユーリも境界線を越える。微かに残っていたざわめきが、完全に消える。
 観客はユーリが予想した通り、大変な数だった。左右の外廊下、本殿に参拝する際の通り道となる場所には、背もたれのない、小さな踏み台のような椅子が並べられ、城勤めの者達用の席となっていた。この簡素な椅子の造りは貴賓席も同じで、幾分膝に力を入れ、姿勢を正しくして座ることが要求される。それに比べると、正門付近に設けられた一般席は自由だ。地に筵のようなものを敷いただけの場所で、思い思いに皆くつろいでいる。服装も、午前に比べれば、くだけた印象の物が多い。厳粛な儀式を見るというよりは、芝居小屋にでも詰めかけているような賑やかさがあった。しかしそれもユーリ達が境界線を越えるまでで、今では期待と緊張に、声と動きを止めていた。

 
 
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  第十三章(3)・1