蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十三章 祭礼(3)  
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「始め!」
 さわりとそこで、風が流れた。ミオウの黒髪が小さくうねり、そして静まる。音はない。動きもない。固唾を呑んで見つめる群集の、忍耐の限界を試すかのように、全てが止まる。地上にありながら天空の領域に立つ二人の類稀なき剣豪が、気迫だけで相手の動きを封じ続ける。「始め」と審判が声をかけた時の姿のまま、水平に剣を翳した最初の構えのまま、石と化す。
 じりじりと、ひりひりと、時だけが刻まれる。未来永劫、この張り詰めた空間の中に閉じ込められてしまうのではないかと、誰もが不安に思う。額に、掌に、じとりと汗が滲むほどの緊張が、体を縛る。
 真っ先に――。
 真っ先に焦れたのは、空だった。深い青の彼方から、雲の欠片が舞い落ちる。右に左にふうわりと、地上までの時を惜しむかのように揺れながら降る。純白の雪片が、睨み合う二人のちょうど真中を割って過ぎる。
 はらり。
 ミオウの黒髪を背景に、雪の欠片が清く輝く。
 はらり。
 水平に翳されたユーリの剣の上を、滑るかのように淡く煌く。
 はらり。
 胴当ての鮮やかな朱色の前で、なお高潔な光を宿し、雪が散る。静かにそっと、地に降り立つ。
「三手、ユーリ・ファン!」
 勝負は、その雪の欠片が、二人の腰ほどの位置から地に着く間に決まった。
 同時に二人が前に飛び出す。共に、雪の欠片を薙ぎ払おうとするかのように、下段に剣を構える。ミオウの剣が、先に動く。しかしユーリはそれを難なく弾くと、迷うことなく自身の剣をミオウの喉下に突き立てた。
 ミオウが後ろにかわす。深追いを避け、剣を引く。その動きに再び攻勢に出ようとするミオウをさらに突く。またかわされる。もう一度引く。
 無駄な動きは一切なかった。突いて、引いて。それらはまるで、大きく剣を一振りするがごとく、一つの流れの中にあった。極めて短い時の中にあった。
 そして三度目。深く踏込んだユーリの一撃が、ミオウを追い詰める。
 並みの者なら、いや、地球においては誰も、ユーリのこの剣を退けることはできなかった。皆が、この一手に破れた。しかしミオウは、後ろに飛び退きかわすのは無理と見るや、素早く両腕を引いた。真後ろではなく斜め下方に、ミオウの剣が引かれる。両者の間に微少な空間が生じる。
 強引に、左から右へ、ミオウは剣を返した。無理な体勢を、窮屈な間合いを、力でねじ伏せんとする。矢のように突き上げるユーリの剣の、横腹を叩く。
 だが、思うような衝撃を、ミオウの手は感じなかった。一瞬にしてユーリの剣は深く沈められ、そのままびしりとミオウの胴を払った。小気味よい音が高く響き、雪片が地に達する。
 白砂の上で、雪の欠片が小さく震えた。輪郭がそろりと崩れ、砂に張り付く。冷えた大地の上でゆっくりと溶ける。煌きだけを残し、白砂の中に消える。
 どよめきが起ったのは、その時だった。観衆の低く深い感嘆の息は、ただ感動によるものだけではない。事の全てを見切ることができなかった己に対する、軽い失望も混じっていた。
 決まり手は分からない。キーナスの騎士の剣が鋭く突き出され、寸でシャン国王がかわしたかのように見えたが。どういう加減か、まるで生き物のように騎士の剣は伸び、深く相手の懐を襲い、気付いた時にはその胴を払っていた。不思議なことは、まだある。ずっと下段に構えていたはずのシャン国王の剣が、何故か上段にある。ぴたりとキーナスの騎士の首筋に、いつの間にか添えられている。迫り来る騎士の剣を弾かんと、シャン国王の剣が翻ったところまでは見たように思うが。そこから先は、とにかく目にも止まらぬ素早さだった。空気どころか、時間をも裂くような切れ味だった。あっぱれ、とただ唸るしかない試合であった。
 そう、腕に覚えのある者は皆、思った。そしてそうでないほとんどの観客はこう感じた。やっとこの緊張から解放され、声を出し、息をすることが許されると。
 どよめきが歓声に変わる。思わず立ち上がり「見事!」とウル国王が出した大声を耳にしながら、ユーリはようやく剣を引いた。わずか数ミリを残し、首に当てられたミオウの剣も下がる。撫でるように、切るように、そっと離れる。
「お見事」
 ユーリだけにしか届かぬ小さな声で、ミオウが囁いた。
「こうでなければ、面白くない」
 ふっとその目が微笑む。
「いずれ、また――」
 ……また?
 ユーリはミオウを見返した。しかし彼はすでに背を向け、白砂に刻まれた境界を越え、下界に下りてしまった。敗者は去り、勝者のユーリが一人残る。
 この後、審判による勝者を称える祝詞があり、さらにウル国王の祝辞があり、勝利を収めた剣を勝者自らが本殿に捧げ、さらに、さらに……。
 しかしユーリは、長く複雑なこれからの段取りよりも、ミオウの言葉が気になっていた。いずれ、また――機会があればお相手願いたい、そういう趣旨であろう社交辞令に、妙な引っ掛かりを胸に覚えた。
 いずれ、また。
 その時ユーリは、確信に近い思いで、間違いなくその日が来るように感じていた。

 

 
 
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