何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第一章 それが始まり  
           
 
 

「少年――うごっ」
 キャンディの唇から、予定とは違う音が漏れた。見た目はがっしりしているが、肘を預けた机はぼろだった。左手前側の足が折れているのを、応急処置だけして使っていたのだ。傾いた机の上のものが、ざざっと流れる。その流れが、キャンディに現実を呼び戻す。
 いかん。危なく大事な要点を見落とすところだった。
 割れた水晶板が、見事な確率でごみ輪に吸い込まれるのを見つめながら思う。
 これは成功報酬だ。事前に金はもらえない。つまり、家賃は払えない。確実に成し遂げられるなら、それを盾に待ってもらうことも可能だが。こんな雲をつかむような話では、それも叶わない。この少年の雰囲気と、初めて見たブルー・スターのせいで、危うく妙な夢を見るところであった。
「少年、いや、ニコル」
 意識的に厳しい顔を作って、キャンディは言った。
「悪いが、やはり引き受けるわけにはいかぬ」
 予想通りの反応が、目の前で起こる。金と青の瞳が見る見るうちに潤み、乱反射する。掠れた声で「どうして」と呟く。言葉の終わりが、小さな嗚咽で翳る。そのまま俯く。とうとう押さえきれずに、透明な雫が一つ、頬に零れ落ちた。
 まずい!
 キャンディは、急いで視線を傾いた机に転じた。
「いや、つまり……わたしでは力になれぬであろうということだ。エトール山なんて、お伽噺でしか知らぬし。それに、厳しいようだが、仕事として条件が悪過ぎる。失敗した時の保証がない。どのくらいの時間がかかるか、どれだけの費用が必要か。その見当すらつかぬ仕事を、前金もなく受けることはできない」
「分かりました」
 ほとんど間を置かず、清とした声が響いた。不思議に思い、顔を上げる。それがいけなかった。悲壮な決意を秘めた目に、そのまま囚われる。
「期間は四十日。カランドの月が、マルの月に変るまで。たとえ、エトール山に辿りつくことが叶わなくても、その時に、この石は差し上げます。それで、引き受けて下さいますね」
 断る理由が見つからない。それ以前に、できない。もしここでだめだと言えば、あるいはこの切なる視線を外してしまえば。絶望のあまり、この場で彼は散ってしまうのではないか。そう思えるくらい、頼りなげで、儚げな存在が助けを求めている。手を伸ばしている。
 損な性分だ。だが、それが自分だ。
 キャンディは、その手をつかんだ。
「分かった、引き受けよう。ただし――」
「ありがとうございます」
「なっ、言った通りだろ?」
「……カイ?」
 キャンディの顔が、あからさまに不快の色を湛える。許可なく入ってきた男を、睨む。
 その先だけが真っ白な、濃茶色の耳としっぽ。右耳の端が少し欠けており、それが精悍な体つきに箔をつけている。短く刈ったこげ茶色の髪に収まる顔は、自称、いい男。キャンディ以外の他称でも、しばしばいい男とされている。後ろに背負った大剣、カノートの名は、遠くキラサの国まで聞き及ぶ名剣で、当然その持ち主である彼の名も、広く知られていた。
 腕は確か、仕事も速い。べらぼうに報酬は高いが、雇う価値はある。
 この報酬部分の記述を除けば、キャンディの評価と変らない。つまりはこの男、彼女の同業者であった。
「なるほど」
 綿毛のようなしっぽを一つ揺らし、キャンディは腕を組んだ。
「ここにこの少年をよこしたのは、貴様か。一体、何を企んでいる? この子をどうする気だ」
「おいおい、ご挨拶だな」
 大仰に手を振りながら、にやけた顔でカイが近付いた。
「俺はただ、偶然道端でこのガキに会って。いきなりエトール山ってどこですか?って聞かれたもんだからさ。そういう話を親身になって聞いてくれる、綺麗なお姉さんを紹介しただけで」
「少年、いや、ニコル」
「あっ……は、はい」
「お前、このバカデカの下品なブ男に、その石を見せたか?」
「……は、はい」
 こくりと頷くニコルを見て、キャンディは右の眉を吊り上げた。
「ネタは上がってるぞ、ブ男。貴様の狙いは、この石だな」
「おい、待てよ」
 カイは軽く左右に首を振ると、机の上に尻の半分を乗せた。傾いた机が、真っ直ぐとなる。器用にその状態を保ちながら、カイは体をキャンディの方に寄せた。
「なんでそうなんだよ。石が狙いなら、俺がその場で引き受けるさ。なぜそれを、お前にわざわざ紹介する?」
「確かにな。貴様なら、その場で強奪しているな」
「ちょっと待て。いくらなんでも、盗賊まがいのことを、俺はしないぜ」
「では、なぜだ?」
「分かるだろ?」
 カイの体が、さらに接近する。艶やかな黒い瞳が間近に迫る。互いの吐息で熱せられた空間が、甘く揺らめく。

 
 
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  第一章・4