「ラウール・トゥ・マルモ」
音楽的な調べを思わせる呪文が、魔法師の口から流れる。黄金の杖がまた輝き、そこから幾筋もの光の帯が伸びる。光は瀕死で転がる者達を優しく包み、そこで弾けた。粒となった光が、伏した者の肌を撫でる。こびりついた血を、傷ごと洗う。嘘のように呼吸が落ちつき、深く、強くなる。
「癒しの……魔法」
キャンディは思わず感嘆の声を上げた。見るのは初めてだった。いや、見たことのある者の方が稀であろう。たとえ聖都に住む者でも、おいそれと接することは叶わない。最も高位の、最も難度の高い部類に入るこの魔法を扱える者自体が、限られているのだ。
それを、こんな場所で……一体、あいつは?
「てめえ、一体何者だ? 俺達まで切り刻むつ――どぁっ」
小さな魔法師に向かって啖呵を切ったカイが、腹を抱えた。恨めしげに、肘鉄を入れてきた相手を睨む。
「何すんだよ、キャンディ――とぅ」
キャンディの右足が、カイの膝裏を狙う。かろうじてそれを飛び上がってよけながら、カイは唸った。
「おい、てめえ」
「口の利き方に気をつけろ。相手は聖都の魔法師だぞ」
低い声でそう言うと、キャンディは魔法師の方を向いた。
くるりと振り向いたその者と、視線が合う。蜂蜜色の大きな目。少し丸っこい鼻と口。真っ直ぐな金色の髪の中に収まっているのは、可愛らしいという表現が最も適切な幼い顔だった。
肩透かしを食ったような感覚を覚え、一瞬言葉が出遅れる。先に口を開いたのは、キャンディの後ろに張りつくように立っていたニコルであった。
「あの、ありがとうございます」
お辞儀をした拍子に、銀の髪がさらりと落ちる。月の光を吸って輝く。
「礼なんかいらへん。困ってるもんを助けるのは、当たり前のことや。それより」
まろやかな声を出しながら、魔法師が近付いた。杖を左から右に持ちかえる。それを見て、キャンディは少しだけ緊張を解いた。魔法は常に、左の手に気をためて行う。杖を右手で持つということは、魔法を使う意志がないという印だ。
「あんたさん、えらい変わった目の色してはるなあ」
まじまじと、ニコルの顔を覗き込みながら魔法師は言った。
「綺麗な目やなあ。初めて見たわ」
真正面から見つめられ、ニコルは少し頬を赤くした。金と青の目が、二回、瞬く。それを見て、魔法師はにっこり笑った。
「まあ、気ぃつけて行きなはれや。この辺りは、まだまだ物騒やし」
「まだって」
軽く痛みの残る額に手を宛がいながら、カイが言った。
「あの石頭の他にも、何かいるのか?」
「まあ、いろいろと。例えば――アルディナ・カッシータ」
キャンディは、我が目を疑った。くるりと横を向いた魔法師の手から炎が放たれ、近くの茂みを焼いた。ぎゃあとか、わあとか、悲鳴が聞こえ、慌しく立ち去る足音が響く。カイが何やら喚きながら追って行ったが、キャンディの目は魔法師に釘付けとなったままであった。
見間違いでは……ないよな。
言い聞かせるように、胸の内で呟く。今のは炎の魔法、さっきのは風の魔法。聖都の魔法師なれば、複数の種類を操ることなど造作はない。ましてや彼は、癒しの魔法をも扱える腕を持つ。だが――。
キャンディは目を凝らした。
間違いない。杖は右手にある。右手で握ったまま、術を発動したのだ。そんな、そんなこと……。
「驚かせてしもうたかいな」
魔法師が振り向く。
「僕、両方使えるんや。右手の方が、ちょっとばかし力が落ちるんやけど」
無邪気な笑顔がキャンディに向けられる。それに形ばかりの微笑を返しながらキャンディは思った。
笑顔に嘘は感じられない。だが、その力も嘘ではない。これが、その顔に鍛錬と労苦の跡を刻む、年老いた者の姿であれば、何の違和感も感じないだろう。だが、目の前の魔法師は、ニコルよりも幼い。いつ、暴発するか分からない危険な武器を、おもちゃにしているような危うさを、そこに覚える。
「ダメだ……はあ、はあ……逃げられた……はあ……どうやら……酒場の親父の仲間だったようだが」
息を切らして戻ってきたカイに一瞥をくれると、キャンディは魔法師に向かって口を開いた。
「魔法師殿には」
心のとまどいが、その表情と口調を堅くする。
「二度も助けて頂き、感謝の念でいっぱいである。謹んで、ここに礼を申し上げる」
「嫌やなあ。そんな堅い挨拶されても、嬉しないわ」
魔法師は、素直に伸びた黄金の髪を揺らし、首を傾げた。
「あんたの礼の方が、よっぽど心がこもって気持ちええ。あー、ニコルって言うたかいの」
こくんとニコルが頷き、薄紅色の唇を開く。
「あの……えっと」
「ああ、名前言うの忘れとった。僕は、ルーデオラント・マルレアン。ちと長いから、ルウって呼んでえな」
「うん。ありがとう、ルウ」
弾けるような笑顔が、ニコルの顔に施される。
「ええなあ、その笑顔。素直でよろしい」
「なんか、微妙に見た目より年くってんじゃねえか?」
カイがキャンディに囁く。
「どうも話し方が年よりくせえ。不老不死の魔術とか、使えそうだし」
「そんなものは存在しない」
踵でカイのつま先を力強く踏み締めながら、キャンディは小声で鋭く否定した。呻くカイを押しのけ、ニコルの側に寄る。
「ニコル。先を急ぐぞ。酒場の親父が復活すると、厄介だ」
「う、うん」
「ちょい待ち。あんたら、野宿する気かいな。心配せんでも結界はったるさかい、今夜はこの町で休んでいくとええ。というか、そもそもあんたら、どこへ行くつもりなんや? そんなに急いで」
「僕達、エトール山へ行くんです」
笑顔で即答するニコルに、カイが慌てる。
「いや、これにはいろいろと訳が」
「彼が案内してくれるんだ」
嬉しそうに後ろを振り返ったニコルから、クロノスが視線を外す。
「へえ……」
「いや、だから」
「面白そうやないか」
ルウが笑う。
「僕も一緒に行ってええかな?」
「へ?」
「いや」
「本当に?」
カイの驚きと、キャンディの否定の上に、ニコルの弾んだ声が乗る。
「うん、一緒に行こう」
そう言って、ニコルはルウの手を取った。
こいつ、どういうつもりだ?
キャンディは、鋭い視線でルウを見た。屈託のない笑顔。だが、ニコルのそれと、微妙に質が違う。心の最も深いところが、見えてこない。日の元に、晒されていない。
そんな感覚を、考え過ぎだと振り切ることができずに、キャンディは眉間に軽く皺を寄せた。