「わたしは……ずっとクロノスを信用していなかった。彼は嘘をついていると。エトール山への道など、本当は知らぬのだと。実際、彼はそうだった。最後の一節が分からぬのに、最後の道筋を知らぬのに、それをずっと隠していた」
「で、でも――」
「最後まで言わせてくれ、ニコル」
俯くクロノスの顔色を、心配そうに伺いながら声を上げた少年に、キャンディは優しく言った。
「わたしはルウも信頼していなかった。聖都の魔法師が、なぜこんなところをうろうろしているのか。なにゆえ、わたし達と行動を共にしているのか。今もまだ、わたしにはその理由が分からない」
ルウの表情が、哀しげに曇る。それを受けて、キャンディが微笑む。
「だがルウは、何度もわたし達の危機を救ってくれた。それは間違いない事実だ。クロノスも、こうしてわたし達を、ここに導いてくれた。もし、わたしがもっと強く彼らを疑い、彼らを受け入れなかったとしたら、ここに辿りつくことはできなかったであろう。わたしだけが正しいのだと信じて、わたしだけの力で何とかしようとしていたなら」
キャンディは、ふわりと尻尾を揺らした。そしてカイを見る。
「わたしはお前を疑っていた。そして今も、疑念を持っている。お前の目的がどこにあるのか、それを見極めきれずにいる。そのお前に、あえてわたしは託す。愚かな判断となるやも知れぬが、そう下す」
「言ってくれるよな」
カイの眉が、強く寄せられる。
「それで、牽制したつもりか?」
「ちがう」
キャンディは首を振った。
「どちらの方が愚かであるか、迷った末の決断だ。自分だけを信じ、他者を退ける愚かさと、他者を信じ、時に騙される愚かさと、どちらを取るか。わたしは今まで、一度も後者を選んだことがなかった。しかし今は、それを選びたいと思っている。みなと旅をして――ニコル、お前と旅をして」
「キャンディ……さん」
「ニコル」
キャンディは、右手を伸ばし、そっとニコルの頬に添えた。
「お前が、わたしかカイか、どちらかに頼みたいというなら、わたしはカイに任せたい。それでいいな」
「はい」
こくりとニコルが頷いた。そして、カイの正面に立つ。
「お、おい。キャン――」
「頼んだぞ」
「頼みます」
「柱の上まで、しっかり石を運んでや」
口々にそう言われ、カイはさらに顔をしかめた。
「本気で、俺に?」
「カイさん、手を出して下さい。両手をこう、僕のように」
「あ、ああ」
戸惑いを顔に残したまま、カイは両手を前に出した。それを受けて、ニコルが大きく息を吸う。そして、今まで一度も聞いたことのない、凛とした響きを放つ。
「我、ニコル・ベルファンは、ここに命ず。我の手を離れ――」
ブルー・スターが明るく輝く。表面が、緩やかに波立つ。ニコルはそれを、高く放り投げた。
「新たなる主、カイ・グランの元へ発て!」
煌く星が、真っ直ぐに落ちる。カイの手に、するりと納まる。輝きに艶やかさが加わり、カイの両手に淡い青の翳を落とす。
「でかしたぞ、カイ・グラン」
神秘の洞窟が、無粋な声に踏みにじられた。荒々しい足音。金属のかち合う響き。
「あれは……王都の……」
そう呟き、絶句したキャンディの青い目が、急速に細る。鋭い光を宿し、現れ出でた者達を睨みつける。
銀の鎧の男達。その美しい光沢と優美な形は、紛れもなく王城を守る兵士のものだ。整然と、二十名近くの者が立ち並ぶ中央には、痩せた背の高い、緋色の外套を纏った男。この色の衣は、王の側近にしか許されていない。つまり、彼らは王直属の部隊。王直々の命によって動く者達。そんな輩が、どうして……。
「カイ……」
緋色の衣を見据えたまま、キャンディは言った。
「これが、貴様の答えか。最初からそのつもりで、わたしの元に」
カイの大きな背中が、視界の端に映る。大剣カノートが、揺れながら遠ざかる。
「待てよ。裏切るのかよ!」
クロノスが叫ぶ。
「キャンディ、なんで止めないんだよ!」
「無茶ゆうたらあかん」
宥めるような優しい声で、ルウが囁いた。
「今の彼は無敵やで。止めて、止められる相手やない」
「で、でも……あの石は、ニコルの……」
クロノスの声には、もう涙が混じっていた。傍らのニコルを振り返りたいが、それができない。ニコルの顔を見るのが辛くて、振り向けない。
「さあ、その石を私に――」
「金が先だ、レンダス」
低い声でカイが呟いた。
「それと、この石はあんたじゃなく、王に直接渡す」
「ふん」
緋色の衣の下から覗く、銀灰色の長い尾を揺らして、レンダスは答えた。
「貴様のような卑しき者を、陛下に会わすわけにはいかん。身のほどを弁えて、黙って私にそれをよこせ。ほら、金だ」
そう言うとレンダスは、兵士が差し出した大きな皮袋をつかみ、それをカイに向かって投げた。
鈍く重い音を響かせ、地に落ちる。袋の紐がわずかに解け、そこから五枚ほど金貨が零れ出る。
カイは、右足のつま先を器用に使って、袋の口を押し広げた。その場にしゃがむ。左手でブルー・スターを持ったまま、右手だけを袋の中に突っ込む。
「ところで」
掌にすくった金貨の重さとその艶を確かめながら、カイが言う。
「あいつらは、どうする気だ?」
「知れたこと」
口端を引き上げ、レンダスが笑う。
「残らず始末する」
「そうか……まあ、せいぜい頑張れよ。腕の立つやつがいるからな。白い綿菓子のような外見に惑わされると、痛い目にあうぞ」
「カイ、貴様!」
しかしカイは、キャンディの声には見向きもせず、皮袋の口を、手と足とを使ってしっかりと閉めた。
ぐいっと、それを担ぎ上げる。
「さあ」
レンダスの声が焦れる。
「金は渡したぞ。早く、ブルー・スターをよこせ」
「そう、慌てるなよ」
カイは左手を、ゆっくりと目の高さまで持ち上げた。みなの目が、一斉にそれを追う。強い視線が、異常なまでに熱を帯びる。
「何をしている!」
苛立ちが、レンダスの声を一段、高くする。
「早くよこせ。まさか、貴様、それを渡さぬ気では――」
「よせやい。俺はこんな石の力なんぞに、興味はねえ。永遠の命なんてのにはな」
カイの目が、虚ろに揺れる。
「自分だけ生きて、自分だけ生き残って、何の意味がある?」
「何をぶつぶつ言っている。さっさとそれを――」
「我、カイ・グランはここに命ず!」
張りのある声が、洞窟内を打つ。軽く眉を引き上げ、カイが言った。
「どうした? レンダス。さっさと手を出せよ。今、渡すから」
「……あ、ああ」
緋色の衣が大きく揺れ、カイのすぐ目の前で止まる。にやりと、カイが笑う。
「我の手を離れ」
ブルー・スターの輝きが増す。その光を一度大きく沈め、そして高く、高く、放り投げる。