スエピキ、ピンクマン!                  
 
  第三章 出動!  
           
 
 

 今日のホームは綺麗だ。タバコも落ちていない。ひょっとしたら、このまま何事もなく一日が終るかもしれない。というか、終って欲しい。
 あの姿を三分、人の目に晒す勇気がもてない。それに、三分で済むかどうか、かなり怪しい。着替える時間だって必要だ。慣れない操作でてこずる場合も考えられる。やはり、何度か練習し、さらにイメージトレーニングを積み、その上で挑戦するのが順当であろう。
 だが、さくらちゃんは、それを許してくれなかった。早く、絵本の世界に戻りたいらしい。決まりによると、説明だけして放っておくわけにはいかないのだそうだ。実際に使って、本人が納得したのを確かめないことには、帰れない。随分律儀なことだが、そのお蔭で、私はぶっつけ本番を余儀なくされた。
「おおっ、電車や、電車!」
 楽しげな声を上げるさくらちゃんに、『そんなに面白いなら、もう少しこちらの世界でゆっくりしていけばいいのに』と思いつつ、私は傍らを振り返った。ぎょっとする。思わず、大声を上げそうになる。
 シマウマが、電車に突き刺さっていた。窓から中を覗くと、さくらちゃんが、背もたれの部分から生え出ている。座席には、シマウマの首が半分乗っていて、その端っこが、座っている人の腹を抉っている。
 ちょっとしたホラー映画に勝るとも劣らぬ、異様な光景だ。私はなるべくその方向を見ないようにしながら、真っ当に入り口から乗り込んだ。
 平日に比べ、とても空いている。それでも、私が腰を下ろした時、座席は全部埋まってしまった。
 いつもなら、もう少し余裕があるんだがな。
 私はそう思いながら、何となく辺りを見渡した。
「……あっ」
 私は右方向に向いていた顔を、急いで逆に向けた。そのまま俯く。腕を組み、目を閉じる。だが、自分の心は誤魔化せない。
 見て……しまった……。
 私は苦々しく、胸の内で呟いた。
 右斜め前に、男が一人座っていた。私より、四、五才、上であろうか。小太りの、頭のてっぺんが禿げた、えらくてかった顔の男。その彼が、新聞を広げていた。まるで自宅の居間で読むかのように、大きく広げてそれを見ていた。
 私は閉じていた目の右側だけを薄く開け、そろりとまたその方向を探った。
 左側に座る男は、迷惑そうに顔を歪めている。が、特に注意するつもりはないらしい。それに、左の方は、新聞男も少し遠慮気味に肘を曲げている。深刻なのは、右側の方だ。
 若い女性。会社員の雰囲気ではない。おそらくは大学生。その彼女が、少し体を反り、膝の上の両手を突っ張るように伸ばし、新聞男の領域侵犯に堪えている。まったく、迷惑なことだ。男の手は、彼女の顔の正面辺りまで伸びている。
 しかも、一体どんな読み方をしているのか。男は何度も何度も、忙しなくめくっては広げる動作を繰り返していた。その度に、女性の顔が堅く強張る。
 あれ……?
 私はあることに気付き、今度はしっかりと両目を開け、男の方を見た。
 新聞の陰になっているので、はっきりとは分からないが。この角度からすると、男の肘は、女性の体にぴったりと接触しているのではないだろうか。それも、ちょうど胸の辺りに。となると、これは単なる迷惑行為ではなく、恥ずべき犯罪ということになる。正すべきだ。正すべきだが……。
 私は新聞男から視線を外した。
 確証はない。痴漢行為であるかどうか、ここからは見極められない。勇んで注意して、勘違いだったら、こちらはただの赤っ恥だ。大体、本当にそうなら、被害者本人が黙っていないだろう。女性が何も言わないのだから、他人がとやかく言う必要はない。新聞を広げる行為だって、別に目くじらをたてるほどのことでは――。
「それが、おっちゃんの答えか」
 その言葉に、私は体を堅くした。膝に置いたジュラルミン・ケースの上で、両拳を握り締める。
「おっちゃんの正義は、その程度か」
 唇をぎゅっと結ぶ。さくらちゃんの言葉に、ただ堪える。
「思うだけでなんもせーへんのやったら、思ってないんと一緒や。なんも感じてないんと、一緒や」
 さくら……ちゃん……。
「大人はみんなそうや。言うてることは立派やけど、やってることは――」
 心臓が、凍るように感じた。鋭い刃で、刺されたようにも思えた。激しい痛み、そして衝撃。だが、私はそれで、目が覚めた。
 そうだね、さくらちゃん……。
 心の中で、呼びかける。
 間違いであることが分かっていながら、それを正さないのは、自ら過ちを犯すことと同意だ。いくらでも知ることができるのに、無知であり続けるのと同じくらい、罪なことだ。それが分かっていながら、何もしない。大人なのにね。さくらちゃんの言う通り、大人なのに、弱くて、卑怯で……。
 でもね。
 私は、真正面の窓を流れる景色に、目をやった。嫌になるほど見慣れた風景は、私に確実な所在地を知らせた。次の駅まで、後六分。するりと、ネクタイをほどく。
 でもね、さくらちゃん。大人の中には、本当に強く、素晴らしい人もいるんだ。純粋に、正しいことを正しいと言い、それを為すことのできる人が。
 上着を脱ぐ。目立たぬように、その背広で手元を隠しながら、シャツのボタンを外していく。
 そういう立派な人達のことを、私はとても尊敬している。私だけでなく、他の大人達もいっぱい。もしかしたらみんな、全員が、そう感じている。そして、できることなら、自分もそうでありたいと思っている。でも、それがあまりにも難しくて、みんな逃げてしまうんだ。自分の心の中にある、綺麗な気持ちにまで嘘をついて。
 ベルトをするりと外す。ズボンのチャックに手をかける。
 だけど、もう逃げないよ。さくらちゃんが、そのチャンスをくれたんだからね。私は、逃げたりしない。
 流れる景色が、私にその時までのカウントダウンを促す。

 
 
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  第三章・2