スエピキ、ピンクマン!                  
 
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 土曜の朝は穏やかだ。
 朝食を作る暇がなかったことも、当然、食べることができなかったことも。まだ眠っている妻に、『晩飯を頼む』とメモを残しておくのを忘れたことも、ちょうど家を出る時にかち合った娘に、そっぽを向かれたことも。全部、帳消しにしていいくらい、人が少ない。
 しかし、そのせいで、今日は何事もなく駅まで来てしまった。これが平日なら、歩道をフルスピードで駆け抜ける自転車や、赤信号で止まったついでに窓からタバコをポイ捨てする車に、ピンクマンの鉄槌が下されたであろうが。
 私は背広のポケットから定期を取り出し、改札機に通した。何気なく左方を見て、ぎょっとする。
 シマウマに乗ったさくらちゃんが、改札をすり抜けていた。文字通り、そのままの意味で。
 イメージとしては、幽霊のような感じだろうか。実際、見たことがないので、何とも言えないが。とにかく、あらゆる物体を、さくらちゃんは通り抜けてしまうのだ。と言うより、物体の方がすり抜けてしまう。さくらちゃんの小さな体に改札機が突き刺さり、それが背中から抜けていく。シマウマも然り。全てがその調子なのである。
 しかも幽霊と違って、いや、幽霊が実際どうだか、もちろん知らないが、さくらちゃんの存在ははっきりとしている。どこか透けるような、ぼやけたような、そんな存在ではないのだ。さくらちゃんは、質感も重量感も、本物の人間と変わらない。絵本に収まっていた時とは、違うのだ。そこに、命の重みがある。だから、余計に不気味なのだ。
「おっちゃん、あんまりこっち見てたら、あんたが怪しまれるで」
 ちらりと横目で私を見ながら、さくらちゃんが言った。私は慌てて顔を前に向け、列に並んだ。
 彼女の姿は、シマウマも含めて私にしか見えないそうだ。そして、私にしか触ることができない。声も聞こえない。その辺りのことを不思議に思い、さくらちゃんに尋ねたが、なんとか理論の応用で、一時的な空間二重構造を起こし、それをなんとかの法則に基づき定着させているとかどうとか。わけの分からない説明しか、してもらえなかった。
 そう言えば……。
 私はネクタイを少し緩めた。指先を、Yシャツの襟元に滑り込ませ、その下を探る。
 あった……。
 シャツの下に着込んだピンクスーツ。本来これは、顔の部分も覆う構造になっているのだが、まさか、そんな姿で歩くわけにはいかない。よって今は、その部分を首元で丸めた状態となっている。普通なら、ごわごわして気になるところだが、こうやって、あえて触れてみないことには、着ていることすら忘れてしまうほどだ。圧迫感はなく、通気性もいい。これなら頭まですっぽり被っても、無理なく呼吸をすることができるだろう。
 それは良いのだが、このピンクスーツには一つ弱点があった。これをしっかり踏まえておかないと、大きな失敗に繋がる。私は電車を待つ時間を利用して、今朝の出来事を反芻することにした。そっと、目を閉じる。

「ええか。その状態でジュラルミン・ケースをこう抱えるやろ」
 ピンクスーツを着込み、妙な眼鏡をかけた私にさくらちゃんは言った。
「カメラを相手に向け、スイッチを押す。今はオート設定になっとるから、勝手にデータの中から最適なもんを選んでくれる。後は、レンズに出てくる指示通り、動けばええんや。ただし、一つだけ、気ぃつけなあかんことがある」
 さくらちゃんはそこで、すっと三本指を立て、ぐいっと私の前に突き出した。
「これは時間との戦いや。三分、まあ、これが限界やろ」
 三分……。
 私は呻いた。
 つまり、正義を為す時間は三分しかないということか。理由は何だ? 時間が来ると、変身がとけてしまうのか? それとも、それ以上は身体的に負担がかかってしまうという意味なのか?
 しかし、この私の疑問は、続くさくらちゃんの言葉で、すぐに解決をみる。
「効果があるのは、ターゲットのみ。つまり、他のもんには、ありのままの姿が見えとるっちゅうことや。意味、分かるやろ」
 三分も、持つだろうか……。
 私は、筋肉も、骨格も、そしてなにげに弛んだそこかしこについた脂肪も。余すことなく忠実に模る、ピンク・スーツ姿の自身を思い浮かべて震えた。
 あの姿で、人前に立つ。しかも、三分間……。

 踏切りの警報器音を耳にして、私は目を開けた。額に浮かぶ、冷やりとした汗を拭う。もうすぐ電車が入ってくる。

 
 
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  第三章・1