スエピキ、ピンクマン!                  
 
  第三章 出動!  
           
 
 

「あのう……部長?」
 ゆるゆると立ち上がりながら、新聞男が口元に卑屈な笑みを浮かべた。右手で席を譲る仕草をする。
「誤解なさっているみたいですけど、私は別に――」
「痴漢です」
 一瞬、車内の波が引いた。凛とした女性の声が、その空間を再び貫く。
「この人、痴漢です」
 女性の顔は、まだ引き攣っていた。それでも瞳は、しっかりと私を見つめていた。
 良かったんだ――。
 想いが体中に染み渡る。
 これで、良かったんだ……。
「おっ、おい、君ぃ――あ、あの、部長?」
 往生際悪く、女性と私を交互に伺い見る痴漢男を、
「いい加減にしないか!」
 と一喝する。女性の前に立たせ、謝罪を促す。これまでと覚悟を決め、今度は保身のため、何とか警察にだけはと平謝りをする男に、また沸沸と胸の内で正義の火が燃え出したが。そこから先は毅然とした表情の女性に任せて、私は自分の席に戻るべく振り返った。
 車内の視線が、一斉に私を避ける。だが、空気は微妙に違っていた。撥ね付けるような拒否ではなく、受け入れ難い部分を含みながらも許諾するような雰囲気。
 良かったんだ――。
 私はもう一度、その気持ちを噛み締めた。しかし……。
 事が終ると同時に、急激な恥辱感が私を襲った。頭に浮かぶのは、自身のありのままの姿。一刻も早くこの場を逃れなければ、私の精神は崩壊してしまう。
 窓の景色を眺める。
 あれ……?
 背筋に、寒いものが走る。
 私の計算では、次の駅に到着するちょうど五分前の時点で、ピンクマンに変身したはずだった。初めてのことなので、手間取ることも考慮して、その時間を割り出した。結果、予想以上にもたもたしてしまった。つまり、駅にはもう着いていなければならない。だが、窓の景色は、その先を映している。そして、電車は一度もスピードを緩めなかった。
 なぜだ? なぜ、駅に止まらなかったんだ?
 座席の上に脱ぎ捨てた背広から、腕時計が滑り落ちた。拾う。見るともなしに、それを見る。そして、凍る。
 そうか。そういや今朝、さくらちゃんと話をして、遅くなって。二本、電車を逃したんだ。で、いつも乗る急行ではなく、次の特急に……。
 絶望感が、私の心を占める。
 次の停車駅まで、まだ四つある……それまで、それまで。
「お、降りれない……」
 血の気が引く。それこそ、ざざざあっと、音を立てて引く。
 堪えられない。この格好のまま、この場所にいるのは、もう、一分だって堪えられない。降りたい、降りたい、今すぐ降りたい――。
「おっちゃん」
「あぁ……?」
 さくらちゃんの呼びかけに、私は傍らを振り返った。横に座る乗客の膝の上に、さくらちゃんがちょうど対面するようにまたがっている。その乗客の肩がぴくりと震えたが、私は構わず声を出した。
「さくら……ちゃん」
「おっちゃん、降りたいんか? 降りたいんやったら、そこの窓が開いとるで」
「窓?」
 私は、さくらちゃんが指し示した方向を見た。周辺の乗客が、固まる。車内の空気に、また刺々しさが混じる。
「……窓」
「うん。あっこの窓から、飛び降りたらええやん」
「飛び降りる?」
 その私の声に、乗客の顔色が変わった。今までそこにいないかのように避けていた視線を、ちらちらと浴びせ始める。だが、私の意識は、さくらちゃんだけに集中していた。
「飛び降りるって、ここから?」
「そや」
 力強く、さくらちゃんが頷く。
「今のおっちゃんなら、それができる。ピンクマンのおっちゃんならな。どうしても今すぐ、電車から降りたいんやったら、そうするしかないんとちゃんか。でも、ただここを――」
 私は、さくらちゃんの言葉を、最後まで聞くことができなかった。その時すでに、私の体は開いている窓に向かって疾走していた。
 ジュラルミン・ケースを左脇にかかえ、右手で脱ぎ捨てたスーツと靴を持ち、「おい」とか、「わあ」とか、「きゃあ」とか叫ぶ乗客の頭を超える。ちょうどベリーロールのような姿勢で、窓をくぐり抜ける。
 アイスコープの分析力とピンクスーツの身体能力向上パワーとが、私に完璧な軌道を与えていた。
 走る電車の窓から、美しく跳躍する。そして、来るべき衝撃に備え、体を丸める。

 
 
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  第三章・4