スエピキ、ピンクマン!                  
 
  第三章 出動!  
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 …………あれ?
 衝撃が来ない。空が、予想以上に遠のく。
 ま、まだ、落ちている?
 私は背後を顧みた。
 ――か、川?
 待ちかねていた衝撃が、私の体を打った。予想以上の打撃に意識が遠のく。ごふっと口元から音が漏れる。そのスペースから、大量の水が入り込む。
 私はもがいた。体が重い。スーツのパワーを引き出す、あのジュラルミン・ケースが、いつの間にかなくなっている。あるがままの田島弘樹、三十八才、職業・会社員の、その力だけで足掻く。だが、昇っているのか、落ちているのか、それすら分からない。
 もう……。
 苦しさが、限界を超え、薄れる。
 もう……だめ――。
「おっちゃん!」
 私は、その明るい声に薄目を開けた。汚れた水が痛みを伴って視界を塞ぐ。にも関わらず、私はそこに光を見た。柔らかく、優しく差し込む、暖かな光を……。
「ゲホッ、グホッ、ガホッ、ギホッ、ゴホッ」
 順番は違うが、ガ行を一通り使って、私は川の水を吐き出した。
「おっちゃん、大丈夫か?」
 仰向けに伸びている私を見下ろしながら、さくらちゃんが言った。なんと彼女は、川の上を歩いている。じゃない。シマウマの背の上に、立っているのだ。そしてそのシマウマは、器用に川を泳いでいた。私の体を、頭の上に乗せながら。
 そうか。シマウマって、泳げるんだ。
 澄んだ青空を見つめながら、私はそう思った。
 岸につく。川辺の草むらに、そのままどさりと落とされる。かなり痛かったが、命の恩人、いや、恩シマウマに、文句は言えない。ぶるっと体を振るわせ、睨むシマウマに一応の会釈をして、私は改めて自らの命を確認した。
 目を閉じる。息を吸う。肺に、それが行き渡る。十分吸い込んだ後で、ゆっくりと吐く。肩の力が、少し抜ける。
「まあ、あんまりスマートとは言えへんかったけど、ひとまず成功やな」
 私は、再び目を開けた。すぐそばの草むらに、ぺたんと座り、腕を組むさくらちゃんの姿があった。
「さくら……ちゃん」
「反省点としては、まず服の着替え。これをもうちょっと素早くできるようにせなあかんな。後、アイ・スコープの指示通り、速やかに行動すること。その時になって、あれこれ悩んでるようではあかん。今日みたいなのは、まあええけど、もっと危険な状況の時は、その迷いが命取りになるさかい。それから最後に、脱出法。何を考えてたんかしらんけど、こんな危ない方法を選択してたら、体がいくつあっても足らへんで」
「こんな選択って……」
 私は少し抗議の意を込めた声で言った。
「だって、さくらちゃんが」
「おっちゃんが、すぐに降りたいって言うたからやん」
 私の何倍もの抗議を込めて、さくらちゃんが口を尖らせた。
「隣りの車両に行けば済むことやのに」
「………………………………あっ」
「連結のところで、分からんようにそっと着替えて、違う車両に行けばええことやのに。それをおっちゃんが、今すぐ降りたいって言うから」
「……ははっ」
 私は、全くその通り!という意見に、力なく笑った。さくらちゃんの口元が、それで少し緩む。
「まっ、次はそういうとこに、気ぃつけるんやな。今度はおっちゃん一人やさかい、十分、注意してな」
「次……一人で……?」
 驚いて、私は体を起こした。
「一人でって、これからも私は、ピンクマンとして?」
「なんや、おっちゃん。一回こっきりのつもりやったんか?」
「というか」
 私はいつの間にかすっかり乾いている、ピンク・スーツの性能に改めて感心しながら言った。
「こういうのは、一度きりなのかと思って。一度だけ、夢を叶える。そういう」
「そりゃあ、一度でいいから万馬券を取りたいとか、一日でいいからアイドルの恋人になりたいとか、一回でいいからモデルのような姿になって、もてまくりたいとか。そういうのやったら、そうなるけど」
 えらくリアルな例えを並べて、さくらちゃんはこくんと横に首を傾げた。そして、にっこりと笑う。
「おっちゃんの夢は、そんなんとちゃうやろ?」
「…………さくらちゃん」
「ほい!」
「……あっ、ジュラルミン・ケース」
 濁った水底に、沈んだはずのケースを手に取る。
「ほな、元気でな。おっちゃん」
「あっ」
 さすがシマウマ、足、速い……。
 川の上を滑るように、シマウマが駆ける。その背の上で、さくらちゃんは大きく右腕を上げ、体を返して、飛びっきりの笑顔を見せた。
「さいなら!」
 さくら……ちゃん……。
 走るシマウマが対岸に突っ込む。土手の中に埋まり、そのまま吸い込まれる。高く嘶く声だけが、残される。
 私は、元の穏やかな景色となった岸辺を、しばらく見つめていた。
 傍らに、視線を落とす。ピンク・スーツとは違ってびしょ濡れの、しかも嫌な匂いを発する背広と靴、それに眼鏡が置いてある。ジュラルミン・ケース同様、さくらちゃんが拾ってくれたのだろう。気持ち悪いが、それに着替えることにする。まさか、このままの姿で、街中を歩くわけにはいかない。
 とりあえずこれを着て、どこかで安物のスーツを買って……。
 私はそう思考を巡らせながら、さくらちゃんが消えた岸辺をまた見やった。
 いや、消えたわけじゃない。家に帰って、あの絵本を開けば、またさくらちゃんの笑顔に会える。それに、こうして、ここにも……。
 私は、Yシャツのボタンを閉めながら、その下の、鮮やかな桜色のスーツを見つめた。
 さくらちゃんは、ここにいる。私と共に、ずっと一緒に……。
 私は、空を仰いだ。しばらくそのままの姿勢で、立っていた。

 

 
 
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  第三章・5