五。
　行くよ、さくらちゃん。

　四。
　ピンクマン、出動だ。

　三。
　サポート、してくれるよね。

　二。
　さくら……ちゃん？

　一。
　………………。

　弾けるようなさくらちゃんの声が、私にゼロを知らせた。
「任せとき！　おっちゃん！」
　シャツを脱ぐ。ズボンを脱ぐ。靴が引っ掛かって少しもたついたが、首にだぶつくピンク・スーツを引っつかみ、それを一気に上へと引っ張る。
「おっちゃん！」
　さくらちゃんが、絶妙なタイミングで、アイスコープとジュラルミン・ケースを差し出す。私はそれを受け取ると、新聞男の前に立った。
　すでに車内の空気は、異常な振動を発していた。だが、まだそれが爆発するには至っていない。気付いても知らぬふり、気付かぬように眠ったふり。日頃の鍛錬の賜物か、乗客は見事に私を無視している。それは、この新聞男も同様だ。もっとも彼の場合、自分が今していることに夢中で、周りがまったく見えていないだけのようだが。
「おっちゃん、ケースのスイッチ」
　さくらちゃんの声に、反応する。カメラ部分を、しっかりと新聞男の方に向ける。角度的に、ちょうど新聞が邪魔する形となるのだが、なんとか粒子はそれを透過し、男の体に入り込みスキャンを始める。
　あっ、マト◯◯クス……。
　私はその時、ジャパニメーションへのトリビュートとも取れるシーンが有名な、仮想現実世界を舞台にした某大国映画を思い浮かべた。アイスコープのレンズの上に、緑色の光がつらつらと流れる。新聞男の脳をスキャンしたデータが、光速で落ちる。
　それは、ほんの数秒の出来事だったように思う。そのわずかの間に、私の体にも変化が起こる。言いようのない高揚感。全身に漲るエネルギー。そして、極限にまで研ぎ澄まされた、鋭敏な神経。
　光の滝が、唐突に途絶える。レンズの右上に、くっきりと文字が浮かぶ。
　“右手で、新聞を取れ”
　一瞬、躊躇する。
「大丈夫や、おっちゃん。レンズの左下、見てみい」
　私は視線を滑らせた。そこには、
　“木島隆（きじまたかし）　ターゲット上司”
　とある。
　これは……？
「今、おっちゃんの姿は、そのデータの人物通りになってるんや。もちろん、そう見えるのは、こいつだけやけど」
　そうか。
　私は頷いた。
　それなら。
　ぐっと目の前の新聞をつかむ。そしてそれを引っ張る。レンズの右上に、また文字が連なる。
　“「新笆くん」”
　あら……ん？　なんて読むんだ？
　と思う側で、レンズが、
　“アラガキ”
　と、振り仮名をうった。その通り、声を出す。
「新笆――」
　だが、私がそう呼びかける前に、男はひどく狼狽した顔で言った。
「ぶ――部長。ど、どうして、ここに？」
　私はそれには答えず、レンズが次に示した文字に従った。
「君は今、何をしていたのかね」
「な、なにって――し、新聞を」
「こんな混んでいるところで、大きく広げて読んだりしたら、周りに迷惑だろう」
「……は、はあ」
「それぐらい、分からなかったのかね」
　車内が波立つ。もちろん理由は、せっかく見て見ぬ振りをしてやり過ごそうとした妙な輩、すなわち私が、大声を出しているからだ。だが、まだ退却するわけにはいかない。レンズに並ぶ文字を見据え、私はさらに、声を張った。
「いや、それよりも、君はどうして嘘をつくんだね」
「う、うそ？」
　男のてかった額から、汗が吹き出る。
「私は別に……ぶ、部長？」
「君は今、この隣りの女性に何をした？」
「…………」
　新聞男は、もう俯いてしまっている。だが、レンズの言葉は容赦なく続く。
「君はこの女性に――」
　私はそこで、いったん口を噤んだ。レンズの文字は、まだ残っていた。しかし――。
　ちらりと横の女性を見る。彼女は大きく目を見開き、顔を強張らせていた。無理もない。新笆という男にとっては上司の姿である私だが、彼女の目には、ピンク色の全身タイツに身を包んだ、変態男にしか見えていない。ひょっとしたら、いや、間違いなく、隣りの男よりも私の方に、恐怖と嫌悪を感じているだろう。
　それに――。
「おっちゃん、どないしたんや。早よ、とどめの一言を」
“「痴漢をはたらいたのではないかね！」”
　光文字が、責めるように点滅する。しかし、私はまだ、その言葉を口にしなかった。
　痴漢男を詰ることに対して、何も臆するものはない。私を迷わせたのは、女性の気持ちの方であった。被害にあったことを、逆に恥ずかしく感じる場合もある。私が大声を出したことで、みなに注目され、不快を覚えているかもしれない。じっと、その行為に耐え忍んでいた方が、増しだったと思っているかもしれない。
「――おっちゃん？」
　さくらちゃんの声が遠のく。不意に、心が揺らぐ。
　私は、誰のために、こんなことをしているのか？　ただの自己満足ではないのか？　自分の中の正義を、自分だけの正義を、押しつけるだけの……。