<京都守護職設置の背景>
- 文久2年当時、薩長等の雄藩/諸藩の入京、尊王急進派の活動活発化、尊壤テロの横行などにより、譜代である京都所司代や町奉行所では京都をまとめきれず、京都において幕府の威厳は失墜していた。このため、家格と兵力を備えた「大所司代」のようなものが必要とされていた。京都守護職は、このような状況下、京都(御所)警護における幕府の主導権を確保し、幕府の威厳を回復するために幕府が設置した職位である。
- 朝廷/薩摩藩の後押しで幕府のトップについた松平春嶽(政事総裁職)と一橋慶喜(将軍後見職)が主導した文久2年の幕政改革(参照:開国開城「文久2年の幕政改革」)の一環として設置された新設のポスト。
関連:■守護職事件簿の文久2(1862)
<会津藩の京都守護職任命>
- 閏8月に、親藩中で人望がありかつ兵力の充実した会津の松平容保が守護職に任命された。容保の起用は慶喜&板倉勝静・水野忠精(老中)が相談の上決めたという。会津藩内には異論もあったが、結局受け入れた。容保は、同年12月24日に入京した。
- 当初、会津藩には所司代をとの話もあったが、所司代は譜代の職であり、親藩である会津藩の家格と合わないというので守護職が新設された。
関連:■守護職事件簿の文久2(1862)
<京都守護職のポイント>
- 守護職は所司代の上にあって京都の守衛を総括し、近畿の庶政の裁決を行った。また、将軍・後見職・総裁職等が不在のときは、京都において幕府を代表する立場であり、老中の支配下にはなく、将軍直属ポストという強大な力を与えられていた。
- 会津藩は、京都守護が任務であることに違いないが、その目的は公武一和であると考えていた。よく治安/軍事側面のみがクローズアップされる守護職だが、朝廷・幕府・諸藩・諸機関との政治的折衝がかなりの比重を占めていた(→公用方をみてね)。
- 守護職に将軍後見職(のちに禁裏守衛総督・摂海防衛指揮)一橋慶喜・京都所司代桑名候松平定敬(容保の実弟)を加えた一会桑勢力は幕末京都政治のキー・アクターだった。会津藩というと会津戦争のせいで敗者のイメージが強いが、幕末京都政治においては長期間勝者(=権力)の側にいたのである。
- 守護職と幕府は必ずしも一体ではなかった。守護職は、京都における幕府の代表的側面、そして松平容保の朝廷尊奉の態度から、江戸の幕閣からは猜疑を受け、守護職罷免の動きもたびたびあった。また、就任時には「京師の地を死に場所に」と決意していたものの、慶応2年末に将軍に就任した慶喜と容保は政見・感情の面で合わず、容保の病を理由に守護職辞職帰国を再三願い出ており、登城停止も行っていた。
- 守護職=会津藩といえば尊王攘夷急進派(浪士)の弾圧というイメージがあるが、彼らも尊王であった。容保は守護職就任直後から朝廷の便宜をはかっており、上洛当時は尊攘急進派公卿・浪士からの評判もまずまずだった。浪士対策としても、当初は「言路洞開」という融和策をとっていた(足利木像鳩首事件で方針を一転した)。尊攘急進派弾圧といっても、孝明天皇が過激派公卿・浪士を嫌っていたという事実を見逃してはならない。容保は孝明天皇の個人的信頼篤く、宸翰(密勅)を再度下賜されているほどである。尊王が孝明天皇個人への誠忠を意味するならば、容保や会津藩はまぎれもない尊王派だったといえる。
<越前藩の京都守護職>
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