守護職事件簿トップ 京都守護職トップ HPトップ

守護職会津藩 かけあし事件簿文久2年 (容保:28歳)


(守護職前史)戻る ← →次へ(文久3年)
関連:守護職日誌:文久2

■容保の守護職就任

○薩摩藩の中央政局進出と文久の幕政改革
文久2年4月、薩摩藩の「国父」島津久光が、公武一和を推し進めるため、軍事力と朝廷の勢力を背景とした幕政改革の断行をめざして、率兵上京した。朝廷側は薩摩藩の要求を受け入れ、久光は勅使大原重徳の護衛を名目に江戸に派遣され、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽(前越前藩主)の政事総裁職任命を実現させた。朝廷/薩摩の後押しで幕府の実権を握った慶喜・春嶽は、参勤交代緩和・大名妻子の帰国など種々の改革を行った。

○京都における幕府(所司代)の失権回復
幕府は、従来、所司代を京都に置いて、近畿の庶政ならび朝廷の守護(監視)を行ってきた。所司代には代々譜代大名が就任し、幕府の威勢を京都において示す存在だった。安政の大獄時も、所司代が動いて浪人・公家の処罰にあたった。

しかしながら、所司代の威権は久光の率兵上京時以降、大きく失墜した。所司代酒井忠義は、久光の上京に合わせて浪士が所司代襲撃を企てたこと(寺田屋事件)に狼狽して二条城に引き上げ、久光が兵を率いて御所内に入ることも阻止しえなかった。久光が寺田屋事件での浪士鎮圧の功により、滞京(京都守護)の勅命を得たのに比べ、京都市中では幕府方の所司代・町奉行の威光は落ちた。久光が大原と京都を留守にしている間、幕府は、尊攘急進派浪士による「天誅」(テロ)の頻発に手をこまねくようになった。

○会津藩のためのポスト・京都守護職の新設
京都における幕権回復のため、幕府は、酒井を転任させ、大阪城代の本庄宗秀を所司代に任じたが、宗秀も安政の大獄の弾圧側にいたため、尊攘急進派はこれを実力で阻もうとした。そこで、宗秀に代わる新たな所司代として、門閥と兵力を備えた会津藩を任じようとした(こちら)が、会津藩は、所司代は譜代(=幕府の家臣)の職であり、親藩である会津藩の家格にあわないという理由で辞退した。このため、後見職一橋慶喜・政事総裁職松平春嶽は老中と相談し、7月27日、所司代の上により強力な守護職を新設することにした(こちら)

○政事総裁職松平春嶽の説得と守護職就任の三条件
7月28日、春嶽は、会津藩に対して、京都守護職の内命を伝えた(こちら)。容保は、不肖の身で大任は果たせないこと、また京都は藩地から遠く、習俗も知らないとして、翌日、これを固辞した(こちら)。しかし、春嶽/越前藩が重ねて説得を行った結果(こちら)、8月9日、 会津藩は、春嶽に守護職請書と就任の諸条件を提示した(こちら)。その中には(1)浪士対策、(2)将軍上洛、(3)所司代人事が含まれていた(こちら)。このうち、幕府は、所司代人事については、速やかに、会津藩の条件通り、別途任命することとし(守護職が所司代を兼任しないということ)、長岡藩主牧野忠恭を登用することにした(こちら)。(なお、将軍上洛は6月1日に布告されており(こちら)、この頃には既定路線だった。幕府は、閏8月11日に明春の将軍上洛を内決し(こちら)、9月7日に布告した(こちら)が、いずれも容保の守護職就任後のことである)。

○国許の反対と守護職拝命
度重なる説得に拝命を決意した容保は、急使を国許に派遣した。急遽上府した国家老は、最初、諫止したが、容保の決意にうたれ、「君臣諸共に京都を死場所に」という結論になったという(こちら)。8月24日、会津藩は内命受諾を伝達し、閏8月1日、幕府から守護職に任命された(こちら)。

○朝廷の反応
京都守護職が新設されたことを知った朝廷は、武力で京都を制圧するつもりではないかと心配して幕府に守護職設置の事由を問い合わせた。これに対し、幕府は、朝廷尊奉や京都警衛を十分にして天皇の心を安んじるためだと説明した(こちら)。

関連:■テーマ別文久2「松平容保の守護職就任」■「開国開城」「戊午の密勅と安政の大獄「島津久光の率兵上京と寺田屋事件」勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

■守護職の職権と方針の確立と上京の延引

○京都守護への全権委任要求
会津藩は、守護職に任命された閏8月上旬、「斯ル大任」を仰せ付けられたからには、「格別ニ御威権之御沙汰」がなくては勤めは果たせないと考え、赴任の条件として京都守護に関する全権委任を求めた。具体的には、(1)「兼而御警衛之方々(=所司代以下幕府組織・京都警備担当の9大名)」はもちろん、「中国西国の諸大名」にも非常時には万事会津藩に従うように(「万事御家之節度ニ被随候様」)台命を出すこと、(2)御所の外については全権を委任し、「諸家之野心暴発」のときは速かに「御征伐人数」を出すことを、京都警備担当の9大名家に予め命じること、の2点だが、京都町奉行に任命された永井尚志から「被仰立候通り相成筈」との「御挨拶」を受けた(こちら)。

○公武一和を目指す破約攘夷(三港外閉鎖)の周旋と守護職の職掌
また、会津藩は、容保の上京に先立ち、家臣を京都に派遣して下準備をさせるとともに、情勢を探らせた。その結果、守護職は、京都守護が任務であることに違いないが、その目的は公武一和であり、そのためには天皇の(破約)攘夷の意思を尊奉することが肝要だと結論づけた。しかし、(破約)攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港した三港以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えた。

9月17日、容保は幕府に建白書を提出し、三港(長崎・箱館・下田)外閉鎖・無断条約改正等を求めた(ただし、鎖国か開国かの「国是」(国の方針)の最終決定については、将軍が翌年春上洛するまでに諸藩の考えを聴取し、天皇の意向を聞いた上で、決定するようと幕府に委ねている)(こちら)。会津藩は、建白の内容が許容されなければ、「自然、守護之任も立兼」ね、「不容易此度之大任」は務め難い、と強い決意(辞任の示唆)を示したが、幕府は反応を示さなかった。

容保の出発を催促する幕府に対して、会津藩は、幕府が建白に同意するまでは上京できないと粘ったが、9月30日、老中板倉勝静から「開鎖の廟議ハ一橋殿担任して上京せらるへし。守護職ハさる事迄の責そを負ふに及はす」といわれるに及んで、「止を得す」納得した(こちら)

翌10月1日、容保は将軍から上京出発の暇を与えられた。この頃、幕府は先発上京する慶喜が積極開国論(こちら)を上奏する方針だったが、情報漏洩を恐れて、会津藩には伝えられなかった(こちら)。

○「有志」・浪士への穏健方針
容保は、9月17日、藩士に対し、上記建白書の趣旨をよく理解して、上京後は、外には「柔順を旨」として血気にはやらず、「諸藩有志」・浪士のうち、皇国のためを主張する者は同志・傍輩だと思って対応せよ、と通達した(こちら)。

■攘夷別勅使の東下と上京の延引

○容保の江戸滞在・攘夷別勅使待遇改正周旋の沙汰
将軍から暇を与えられた容保は、10月15日に出発することにしたが、京都からやってくる新たな勅使の待遇改善周旋のため、出立を見合わせることになった。

この頃、尊攘急進派が勢力を伸ばす京都では、朝廷が(破約)攘夷督促のために新たな勅使を送ることを決めていた。勅使には三条実美・副使には姉小路公知が任命され、10月12日に出立することになった(こちら)。10月5日、三条は会津藩士を呼び出すと、容保の江戸滞在・勅使待遇改正周旋を求め(こちら)、12日には、たとえ既に京に向かって発足していても江戸に戻って叡慮貫徹に周旋尽力するよう、念を押した(こちら)。

在京藩士から知らせを受けた容保は、早速、登城して勅使待遇改善を建議したが、板倉老中が強く反対し、また慶喜も消極的だったため、建議は不成功に終わった(こちら)。しかし、幕府の消極姿勢に不満をもつ春嶽の総裁職辞表提出・登城停止(こちら)や息子が勅使の護衛として東下してくる前土佐藩主山内容堂の説得(脅迫?!)があり(こちら)、幕府は勅使の待遇を改善することにした。

勅使は10月28日に江戸に到着したが、将軍家茂が麻疹に罹患していたため、勅諚の伝宣は大幅に延期された。このため、容保の上京はさらに遅れることになった。

○久光の守護職任命に反対
一方、京都では、勅使として東下中の尊攘急進派の不在に乗じて、薩摩藩士が勢力巻き返しをはかって朝廷工作を行っていた。この結果、11月12日、幕府に対して久光も守護職に任命せよとの内沙汰が下り(こちら)、16日には容保に対し、久光との協力を命ずる沙汰が下った(こちら)。久光の守護職任命には、公卿の中にも反対があり、長州・土佐藩も激しく反対した。幕府も、容保の強い抵抗にあい、決議できなかった(こちら)が、幕薩連合策を以て京都における尊攘急進派優勢を覆そうと考えていた春嶽を始め、幕府の大勢は朝命を受け入れるつもりであった。ただし、方々に反対があるため、ただちに任命することはせず、翌春の将軍上洛にまで発表を見合わせることにした(こちら)

○慶喜・容保の即時上京vs幕薩連合による公武合体派会議策
11月下旬になって、フランス軍艦が大坂入港して朝廷に条約を迫るという風聞が江戸に伝わった。25日、老中板倉・小笠原長行は、この風聞を根拠に、容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書した。同日、京都から戻ってきた会津藩士外島機兵衛も大目付岡部長常を訪問し、京都町奉行永井尚志との共同意見として慶喜と重職(もちろん含守護職)の即時上京を訴えた(こちら)。 翌26日、幕府は、慶喜・容保・春嶽・容堂の即時海路上京を評議し、容保自身も春嶽を訪れて重職の早期上京を訴えた(こちら)。これらの動きは、摂海・京都防禦を名目に、京都で勢力を伸ばす尊攘急進派及び薩摩藩を武力でけん制しようというものだった。

しかし、幕府は、最終的に、春嶽の提案する幕薩連合による京都会議策を選んだので(こちら)、容保の即時上京も立ち消えとなった。

○別勅使の出立・容保に二度目の
11月27日、攘夷督促の勅諚がようやく伝宣され(こちら)、既に攘夷奉勅の方針に転じていた幕府は、12月5日、攘夷を奉承した(こちら)。7日、勅使一行は江戸を出立して、京都に向い、即日、容保に二度目の暇が言い渡された(こちら)。翌8日、板倉老中は、容保に翌春早々の将軍上洛・将軍による直接守衛を約束し(こちら)容保は、9日、江戸を出立した。閏8月1日の守護職任命から4か月以上もかかった出立であった。

■容保の入京

文久2年12月24日、容保は京都守護職として入京した。容保は関白近衛忠熙を訪ねて天機(注:天皇の機嫌)を伺ってから、宿舎である黒谷の金戒光明寺(注:徳川家の菩提寺である)に入った(こちら)

関連:■テーマ別文久2「容保の上京」「会津藩VS薩摩藩(薩摩藩の守護職任命運動)」「容保VS幕閣・春嶽」 ■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」「京都武力制圧策から公武合体派連合(幕薩連合)策へ」 ■「徒然」「守護職拝命。会津以外の資料によれば
参考:『会津藩庁記録』一、三、『再夢紀事・丁卯日記』、『続再夢紀事』一、『七年史』一、『会津松平家譜』、『京都守護職始末』1、『徳川慶喜公伝』2、『昔夢会筆記』、『幕末政治と倒幕運動』、『開国と幕末政治』(リンク先も参照ください)
最終更新:2011/5/5

戻る ← 次へ(文久3年)


守護職事件簿トップ 京都守護職トップ HPトップ