文久2(1862) |
<要約>
薩摩藩主の父・島津久光は勅使大原重徳護衛の名目で藩兵を率いて江戸に入り、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の政事総裁職任命を実現させた(A:勅使東下)。久光の目的は公武一和であり討幕ではなかったが、外様藩の武力と朝廷の圧力に幕府が屈したことは、幕府の凋落をさらに印象づけるものとなった。 一方、朝廷/薩摩の後押しで幕府の実権を握った慶喜・春嶽は、参勤交代の緩和や京都守護職の設置など、種々の改革を行った(B:文久2年の幕政改革)。 |
将軍:家茂(17歳) | 老中:久世広周(44) | 老中:板倉勝静(40) |
幕政参与:松平春嶽(35) | 幕政参与:松平容保(28) | |
天皇:孝明(32) | 関白:九条尚忠(65) |
◆ 幕府の動揺・島津久光(薩摩藩)への猜疑島津久光の率兵上京と朝政・幕政介入への動き(こちら)は、大名統制の慣例を破ることで、幕府に大きな動揺をもたらした。外様藩が大兵を率いて、しかも京都に入ったことは前例にない上、大名然として兵を指揮する久光は薩摩藩においては藩主の父として実権があるものの、幕府にとっては無位無官の陪臣にすぎない。従者に武装させたまま御所内(近衛邸)に入ったことも禁令を破るものだった。さらに、久光の介入で、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の大老職任命など幕政改革を迫る朝命が遠からず下ることが知れ、久光への猜疑は高まるばかりだった。幕府は対抗策として、久光が京都で入説する事項について、先回りして勅命のでるまえに幕府の意思で実行しようと決めた。 ◆ 一橋派の赦免幕府は、まず4月25日、井伊政権によって弾圧された一橋派の大赦を行った。一橋慶喜(26歳)、前越前藩主・松平春嶽(35)、前尾張藩主・徳川慶勝(39)、前土佐藩主・山内容堂(36)が赦され、面会・文書往復の禁が解かれた。(こちら)◆ 春嶽の登用と幕閣の改造次に5月7日、幕府は、大老にという朝命が下る予定の春嶽を政務参与に任じた。春嶽登用を事前に実現したわけだが、同時に、参与として政治に参加させることで「大老」任命を避けようとするものだった。(こちら)また、相前後して、老中には安政の大獄時に寛典を主張して左遷された板倉勝静(かつきよ)及び天保の改革を実施後に失脚した水野忠邦の子・忠精(31)が起用され、尊攘過激派に疎まれていた安藤信正(44)が罷免された(こちら)。 ◆ 慶喜に対する幕府の忌避ところで後見職にとの朝命が下る予定の慶喜は、赦免されたものの、幕閣から忌避されており、幕政参与に任ぜられなかった。幕府の政策に反対して疎まれていた斉昭の実子だったこと、将軍後継問題で家茂と争ったこと、英明との評判の高かったことなどが原因だったようだ。登用すれば将軍家の為にならず(こちら)、「天下紛乱の源」(『徳川慶喜公伝』)となるとみられていたという。(こちら) 先に幕政参与に任命された春嶽は幕閣にしきりに慶喜登用を説いたが、老中は慶喜は「権謀智術」家であり、将軍家の為にならないと幕府役人一統が反対していると聞き入れなかった。(こちら)5月9日には将軍後見職の田安慶頼が、将軍家茂が17歳となって親政が可能になったという理由で罷免されたが、これも、慶喜を後見職にという朝命を拒む準備だった。(こちら) 関連■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」 |
春嶽の幕政参与登用に先立ち、5月3日には会津藩主松平容保も幕政参与に命じられた。こちらは会津藩の兵力を頼んだものだとされている(『徳川慶喜公伝』)。(こちら) 政治的能力は期待されなかったようで、春嶽は老中・大目付らと会見がひきもきらなかったのに対し、容保は登城してもさしたる用がなかったようだ。気を使った春嶽が老中に容保も同席させてはどうかと提案したほどである。(こちら) |
将軍:家茂(17) | 後見職:一橋慶喜(26) | 総裁職:松平春嶽(35) |
老中:久世広周⇒退任 | 老中:板倉勝静(40) | 幕政参与:松平容保(28) |
天皇:孝明(32) | 関白:九条尚忠(65)⇒近衛忠煕(55) |
◆ 勅使大原重徳と島津久光の江戸到着文久2年5月8日、朝廷は岩倉具視(いわくら・ともみ:38歳)の推す大原重徳(おおはら・しげとみ:62歳)を勅使に任命し、。11日には、勅諭案((1)将軍上洛による国是の議論、(2)五大老の創設、(3)慶喜の後見職・春嶽の大老就任、の三案(三事策)のうち一案の実行)を議定したが(こちら)、久光の入説の結果、大原に与えられた沙汰書は、慶喜の慶喜・春嶽登用であった(こちら)。久光には勅使随従・周旋の沙汰が下った(こちら)。大原は、5月21日、久光率いる800人余の薩摩藩兵を護衛として出京した。6月7日江戸に到着し、10日に江戸城に登城して勅旨を伝えた(こちら)。以後、江戸では、朝廷/薩摩藩vs幕府の攻防が繰り広げられた。 ◆ 慶喜の後見職・春嶽の総裁職就任勅使大原(と薩摩藩)が特に力を入れたのは慶喜の後見職・春嶽の大老への登用だったが、これは外様大名の武力を背景にした朝廷による幕府人事への介入であり、幕府にとって受け難いものだった。大原の度重なる登城談判の結果、5月18日、老中は春嶽の登用は承諾したものの、慶喜の登用はしぶり続けた(こちら)。これに対して、同月26日、大原は老中脇坂・板倉勝静を招いて即答を迫り、また薩摩藩も刺客を伏せるなどの示威行動による側面支援を行った(こちら)。大原は、29日、決死の覚悟で4度目の登城談判に臨み、ようやく老中の承諾を得ることができた(こちら)。7月1日、将軍は勅使を上段に迎え、慶喜の後見職、春嶽の政事総裁職(大老)の朝命を請けた。(こちら)幕府は7月6日、慶喜に一橋家再相続(10万石)及び将軍後見職就任を命じた(こちら)。また、春嶽は病と称して出仕せず、総裁職就任の内命も承諾していなかったが、慶喜らの勧告により、同月9日に就任した。(こちら) ◆ 勅使大原の要請11か条さて、7月23日、慶喜・春嶽は、島津久光陪席のもと、勅使大原と会談した。大原の意向で老中は排除された。席上、勅使は11か条の要請をした。主なものは(1)前所司代酒井忠義の召還、(2)現所司代本庄宗秀の更迭、(3)大阪城代松平信吉の更迭、(4)和宮の御守殿造営、(5)山陵の修復、などである。これに対し、慶喜は弊政改革が基本方針であることを勅使に伝えたが、同時に、不条理な朝命は請けられないとも宣言した。(こちら)◆ 勅使大原の帰京任務を果たした勅使大原は、8月22日、江戸を出立した。しかし、前日に発っていた久光の一行が途中、生麦で英国人数名を殺傷した事件(生麦事件)が起ったため、しばし品川宿に留まり、閏8月6日に帰京した。関連■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」 |
島津久光の家督相続・叙任運動実は島津久光には息子に代わって藩主になろうという野望があった。そこで支藩を通して家督相続の運動をしたが、6月、幕府に拒絶され、7月には総裁職の春嶽にも拒絶された。久光は朝廷工作も行っており、その結果、京都の中山忠能から勅使大原あてに「久光の従四位上中将推任叙の叡慮があるので周旋するよう」との書簡がもたらされた。しかし、大原の周旋にも関わらず、幕府は<無位無官の陪臣である久光への超越した叙任は、諸大名の官位を乱し、武家の制度を崩し、ひいては朝廷のためにもならない>と久光の叙任を承諾しなかった。関連:【徒然:島津久光の改名-藩主への野心?】 |
関連:【余話「激烈老−勅使大原重徳」】 |
将軍:家茂(17) | 後見職:一橋慶喜(26) | 総裁職:松平春嶽(35) |
参与⇒守護職:松平容保(28) | 老中:水野忠精(31) | 老中:板倉勝静(40) |
天皇:孝明(32) | 関白:九条尚忠⇒近衛忠煕(55) |
◆ 基本方針:公武対立の解消(将軍上洛と朝廷への陳謝)春嶽は幕政参与に任じられると、登城して将軍家茂に謁し、国是の決定・開国創業の決意・公平無私の重要性を説いた(こちら)。さらに、公武対立の解消のために、幕府は「徳川之私政」を改良し、将軍上洛の上の朝廷に謝罪することを促した(こちら)。5月26日、将軍上洛が内定し、6月1日に近日の上洛が布告された。さらに、6月7日には勅使大原重徳と島津久光が江戸に到着し、その圧力で、慶喜・春嶽が後見職・総裁職に就任すると、8月、幕府は、朝廷に対し、これまでの失政を謝し、今後は勅意を奉じて「公武一和・天下一致・万民安堵」するよう新政を行う旨を伝えた。ただし、これまでの失政の罪はすべて前老中の久世・安藤に帰し、また「時勢において行われがたき事(=攘夷を示唆)」もあり、朝命を断る場合もあると宣言した。(こちら) 関連■テーマ別文久2「将軍上洛問題」 ◆ 慶喜・春嶽の幕政改革朝命により後見職・総裁職に就いた慶喜・春嶽は、老中板倉勝静らの抵抗にあいながらも、ときには辞職をちらつかせつつ、種々の幕政改革を行った。彼らの主導のもとに行われた「文久2年の幕政改革」の概要は以下のとおり。
関連 ■テーマ別文久2「幕政改革問題」「違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰」「横井小楠」 |
京都守護職拝命について、会津藩内では種々議論があり、最初は辞退したが、幕府の強い要請があり、結局、請けることになった。(関連■:「守護職事件簿」「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2「容保の守護職就任」) |
(薩摩藩島津久光の率兵上洛) (長州藩破約攘夷へ)
更新日:2001/5/29
<主な参考文献>
『再夢紀事・丁卯日記』・『官武通紀』・『大久保利通日記』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜』・『島津久光と明治維新』・『維新史』・『人物叢書松平春嶽』・『人物叢書横井小楠』 |
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