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松平容保の略年譜

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できごと
天保6
(1835)
1 尾張藩支藩美濃高須10代藩主松平義健(まつだいら・よしたつ)の六男として江戸四谷藩邸で誕生
弘化3
(1846)
12 容保、養子として会津藩江戸藩邸に移る
嘉永5
(1852)
18 養父容敬死去。容保、会津藩主を継ぎ、肥後守に任ぜられる。
嘉永6
(1853)
19 ペリー、浦賀に来航。容保、溜詰諸侯諮問時に、井伊直弼とともに和親を主張。(参照:「開国開城」「ペリー来航と和親条約」)。容保、幕命により藩士に品川砲台を警備させる。
安政2
(1855)
21 安政の大地震。和田倉門藩邸ほか被害甚大で死者165名。容保、涙を流すという。
安政6
(1859)
25 容保、蝦夷地を賜い、品川砲台管守を免ぜられる。
万延1
(1860)
26 桜田門外の変容保、幕府に促され急遽江戸勤となる。溜間詰諸侯諮問時に、水戸藩武力制圧に反対する。(参照:「開国開城」「桜田門外の変」
文久2
(1862)
28 5月−幕府、容保を政務参与に任じる
8月−政事総裁職松平春嶽、容保に京都守護職就任を勧告。
閏8容保を京都守護職を拝命(参照:「守護職通史」「守護職拝命」
9月−容保、幕府に公武一和と三港外閉鎖の建白(参照:「守護職通史」「守護職方針確立と建白書」)
10月−容保、勅使待遇改善に尽力(参照:「守護職通史」「勅使待遇改正に尽力」
12月−容保入京
文久3
(1863)
29 1月−容保、初参内
2月−容保、言路洞開を建白。足利木像鳩首事件
3月−残留浪士組会津藩預に
6月−孝明天皇、容保に宸翰
7月−会津藩、天覧馬揃え
8月−禁門の政変(8.18の政変)
10月−孝明天皇、容保に宸翰
11月−京都守護職御用屋敷完成
12月−容保、朝廷参与を命じられる
元治1
(1864)
30 2月−容保、二条家と相敬の約を結ぶ。天皇、容保に宸翰を下賜。幕府、会津藩に5万石増封。征長戦をにらんで、幕府、容保を軍事総裁職に任じ、春嶽を守護職に任命。
3月−参与会議崩壊。容保参議辞任。幕府、春嶽の守護職辞任を許可し、容保を再び守護職に任命。
4月−会津藩、守護職辞表運動。桑名候松平定敬の所司代任命。会津藩、守護職を請ける。
6月−池田屋事件
7月−禁門の変
8月−会津藩、洋式砲術を主流とし軍制改革
10月−第一次征長戦(幕長戦)始まる
11月−慶喜に天狗党追討の勅命。会津藩も従軍。
元治2/
慶応1
(1865)
31 2月−幕府、総督・守護職の月1万両賜金を停止。将軍上洛を促すための容保の東下中止の内旨。
3月−容保、病につき黒谷に本陣移転。老中、会津藩への疑問氷解
4月−容保快復・参内。
5月−幕府、会津藩への手当て支給開始。
6月−一会桑、老中阿部、参内して長州支藩召喚を奏請・勅許される
9月−将軍入京。長州再征の勅許
10月−条約勅許。会津藩、薩摩藩との修復を図るが大久保一蔵に拒否される。薩摩兵入京。
11月−薩摩兵入京は対会津との風評。
慶応2
(1866)
32 1月−容保、長州処分をめぐって老中と慶喜の間を周旋
4月−一会桑参内し、長州厳重処分を奏請・勅許を得る
6月−第二次征長戦始まる
7月−将軍家茂死去。会薩開戦のうわさ流れる。
8月−容保、守護職を所司代に譲り、率兵決戦することを主張。容保、慶喜批判の書簡を慶勝に。休戦の沙汰。薩藩士、慶喜と会の不和を大久保に伝えともだおれを願う。
10月−守護職辞任を申請
12月−容保、慶喜弟の余九麿を世子として養子に。慶喜に将軍宣下。孝明天皇死去。
慶応3
(1867)
33 1月−慶喜、朝廷への征長解兵奏請使者として容保・定敬を任命。容保、評議の上、断る。
2月−会津藩の守護職辞職・東帰運動
3月−老中、余九麿入京後の一時帰国内定を告げる。余九麿入京。
4月−会津藩、容保帰国聴許を二条摂政に求めるが延期を要請される。容保、帰国を幕府に請う。
5月−会津藩、中川宮出仕を要請(大原議秦就任阻止)。兵庫開港と長州寛大の勅命
6月−会津家老、容保早期帰国許可申請の参内。
10月−大政奉還。慶勝、容保に守護職引退を勧告(会津は従わず)。
11月−守護職の進退伺い。
12月−会津藩、長州の上坂の朝命に中川宮とともに反対。岩倉、後藤のクーデター延期要請を「会桑新撰」の動きを理由に拒否。王政復古クーデター・小御所会議(辞官納地と守護職・所司代罷免)。慶喜、会桑を連れて二条城を退去し、大坂城へ。
慶応4/
明治1
(1868)
34 1月−鳥羽伏見の戦い。慶喜、容保・定敬を連れて大坂脱出。軍艦で江戸へ。朝廷、仙台藩に会津征討を命ずる
2月−容保、輪王寺宮に哀訴。容保、家督を養子喜徳に譲り恭順の意を示す。慶喜、容保・定敬の登城さしとめ。慶喜江戸城を出て謹慎。恭順派の会津藩士神保修理自刃。容保、会津へ帰国。武備恭順を命令。
3月−会津藩、軍制を改革。農兵を募集。梶原平馬、スネルからライフル780挺購入。
4月−江戸開城。会津藩と庄内藩の軍事同盟成立。奥羽鎮撫総督九条道孝、諸藩に会津征討を命令。会津藩・仙台藩、会津藩の降服条件を協議。容保、恭順を示し、仙台・米沢藩に頼って救解を願う
閏4−仙台・米沢藩会津討伐中止。奥羽列藩、容保の救解嘆願書を総督府に提出。参謀世良修三、嘆願書を拒絶する。総督、仙台・米沢藩に会津討伐再開を命令。仙台藩士、世良修三を殺害。
5月−家老西郷頼母・梶原平馬・一瀬要人、朝廷に嘆願書提出。奥羽越列藩同盟成立
9月−新政府軍、若松総攻撃。容保、鶴ヶ城開城。容保父子退城して妙国寺に謹慎。
10月−会津一帯で世直し一揆始まる。容保父子、妙国寺を出発し、東京に向う。
11月−容保、因幡鳥取藩邸に禁固。
12月−容保、喜徳、死一等減じられて永禁固に
明治2
(1869)
35 7月−容保、家名再興を許され、継嗣に容大を奏請。慶喜・容保の罪、許される。
11月−容大、家名を相続して華族に列し、斗南藩3万石を与えられる。容保、和歌山藩預りに。
明治3
(1870)
36 3月−容保・喜徳父子、斗南藩預りに(謹慎は継続)。
7月−斗南藩、斗南県に。
8月−容保・喜徳・容大、東京へ移る。
明治5
(1872)
38 容保、お預り解除。
明治13
(1880)
46 日光東照宮宮司に。
明治17
(1884)
50 宮司を辞する
明治20
(1887)
53 再び日光東照宮宮司に。
明治26
(1893)
59 12月4日、正2位に。
12月5日、病死。

<参考資料>:『会津松平家譜』・『会津藩歴史年表』・『会津人物事典武人編』ほか


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