守護職トップ HPのトップ

9代会津藩主 松平容保

プロフィール 略年譜 逸話 評判 詩歌
日誌兼事件簿(適宜「開国開城」
「幕末日誌」にリンク)
天保6〜嘉永5 誕生〜会津藩襲封
嘉永5〜明治1 (守護職年表&日誌へ)

<小史> ★をクリックすると「開国開城」「日誌」等の関連コンテンツに飛びます。

■天保6(1835) 美濃高須藩に誕生
松平容保【かたもり】は御三家尾張藩の支藩美濃高須藩主松平義建【よしたつ】の6男として、天保6年(1835)に誕生した。

■嘉永5(1852) 9代会津藩主就任
弘化3年(1846)、12歳で会津8代藩主松平容敬【かたたか】の養嗣子となり(容敬も高須松平家から養子に入っており、容保の叔父にあたる)、嘉永5年(1852)2月、容敬の病死により9代藩主に就任した(18歳)。

■嘉永6(1853) アメリカとの和親を提言
藩主就任の翌年、嘉永6年(1853)、アメリカ提督ペリーが浦賀に来航した(★)。幕府の溜間詰諸侯諮問時、容保は井伊直弼とともに和親を主張した。 9月には、仙台・盛岡・弘前・秋田・庄内藩とともに、幕府より、蝦夷に領地を与えられ、家臣を開拓・警備に従事させた。安政3年(1856)、容敬の娘敏姫と結婚した(22歳)。(参照:守護職事件簿:ペリー来航と会津藩の沿岸警備

■万延1(1860) 水戸藩処置で注目される
万延元年(1860)、大老井伊直弼が水戸藩士ら18名により暗殺される事件が起った(桜田門外の変)。幕府は、水戸藩に在府の士鎮撫を命じるとともに、有事にそなえて会津・桑名・庄内・小田原藩に出兵の準備をさせた。在国だった容保は、幕府に促されて急遽江戸勤となった。容保は、幕府の水戸藩武力制圧に反対し、さらに12月、桜田門外の変後の処置に関する建白書を提出した。将軍家茂はこれを嘉納し、容保は左近衛権中将に任ぜられた(26歳)。(参照:守護職事件簿・桜田門外の変と容保の発言力向上)

■文久2(1862)閏8月 京都守護職就任
文久2年(1862)、朝廷/薩摩藩の圧力で政権についた将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職松平春嶽の下、幕府はさまざまな改革を行った(★)。その一環として京都守護職が新たに設置され、閏8月、容保が任命された(28歳)。守護職は所司代の上にあって(1)御所の守衛にあたり、(2)京都を始めとする近畿の庶政を担う職であり、京都における幕府の失権の回復と尊王攘夷激派の勢力をそぐことを目的としていた。容保は最初、固辞したが許されず、度重なる説得を受け、拝命を決意した。(参照:守護職事件簿・農村の疲弊と財政危機文久の幕政改革と京都守護職拝命

容保は守護職就任前に家臣に京都の事情を調査させ、三港外閉鎖の攘夷建白書を幕府に提出した(参照:守護職事件簿・京都守護職の方針と職権確立工作。さらに、三条実美の依頼を受け、勅使待遇改善の周旋を行った(参照:守護職事件簿・勅使待遇改善の周旋と尊攘派の好感

■文久2(1862)12月 上洛
同年12月、容保は藩兵を引き連れて入京した。容保に関する朝廷のイメージは、攘夷建白書及び勅使待遇改善の周旋により、好意的であった。ことに孝明天皇は喜び、明けて文久3年正月に容保(29歳)が初参内した折に、御衣を下賜するという武人に対しては異例の厚遇をあたえた(参照:守護職事件簿・容保入京)

尊攘浪士対策でも、容保は当初「言路洞開」という穏健路線をとったが(★)、2月、将軍入京前日に足利三代将軍木像の首を鳩首される事件が起ると、ついに激怒し、強硬路線に転じた(★)。同時に、浪士を攘夷先鋒として自らの指揮下にと建言し(★)、3月には、将軍家茂上京の警護として上洛した浪士組のうち、京都に残留した者たち(残留浪士組・壬生浪士・新選組の前身)の差配を命ぜられた(★)

6月、老中格小笠原長行が、英艦を借りて武装兵約千数百名を率いて海路大坂へ向い、入京を目指した事件()では、在京の将軍とともに小笠原の入京を制止した(★)。このとき、攘夷の決行を名目に東下を勅許された将軍は、7月、海路江戸に向かった。将軍在京による公武一和の実現を望む容保は東帰を諫止したが叶わず(★)、老中から残事務を委任され(★)、在京幕府勢力の代表として尊攘激派と正面から対峙することになった。(参照:開国開城・将軍東帰と会津藩の孤立)

■文久3年8月 禁門の政変(8.18の政変)
8月13日、尊攘激派の工作で大和行幸の詔が下りた。孝明天皇が神武陵等に行幸して攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮に行幸するという内容である(★)。ところが当の天皇は激派公卿の専横を憎んでおり、親征にも消極的で、この詔は偽勅だった。会津藩は、在京薩摩藩と反長州・反尊攘激派で連携し(会薩連合)、公武合体派の中川宮を擁して、天皇の了解のもと(★)、朝廷政変を実行した(★)。この結果、長州及び激派公卿を京都から一掃された(★)。(参照:開国開城・会薩・中川宮連合による禁門の政変

軍事総裁転出問題
以後、準備中

池田屋事件と禁門の変

池田屋事件と禁門の変
(↑改元の年は改元後の年号で表記しています)

主要参考文献:『京都守護職始末』、『七年史』、『徳川慶喜公伝』、『松平容保公伝』
守護職トップ HPのトップ