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嘉永6(1853)〜文久2(1862)

開国開城4: 将軍後継問題と条約勅許問題

<要約>

ときの将軍家定は病弱で奇行が多かったため、黒船来航という非常事態を迎えた幕府には、後継者選びが重要な課題だった。この将軍後継問題をめぐっては、一橋派と南紀派という二つの派閥が激しく対立した。一橋派は幕政改革派、南紀派は守旧派で、後継者争いは政治体制をめぐる対立とも重なっていった。また、この時期、将軍後継問題と並行して、日米修好通商条約の勅許問題が浮上し、条約に反対の天皇/朝廷と幕府の対立が表面化した。結局、南紀派(守旧派)のクーデターともいえる彦根藩主井伊直弼の大老就任で、将軍後継には南紀派の推す紀州藩主慶福(のちの家茂)が指名された。井伊は、条約問題では、勅許を待たずに条約を調印した(無断調印)。さらに、政敵である一橋派(改革派)の弾圧を行い、変容してきた幕府独裁体制への復帰をめざした。

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 安政の大獄


A.将軍後継問題
(安政3〜5/1856〜7)

将軍:家定 首席老中:堀田正睦
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

◆病弱な将軍家定

ペリー来航直後に死去した将軍家慶の後を継いだ家定は病弱で奇行が多かったため、難局をのりきれないとのみられており、将軍を補佐できる後継者擁立は焦眉の問題だった。

◆一橋派と南紀派の対立

家定の後継として有力候補に挙げられたのが、前水戸藩主徳川斉昭の実子で御三卿の一橋家に養子に出ていた一橋慶喜(17歳)と紀州藩主の徳川慶福(とくがわ・よしとみ:8歳)である。それぞれを推す人々は一橋派、南紀派と呼ばれ、激しい対立を繰り広げた。また、一橋派は幕政改革派、南紀派は守旧派であり、将軍後継をめぐる対立は、そのまま幕政改革をめぐる政治対立とも重なっいた

◆一橋派

慶喜は、幼い頃から英邁との評判が高く、国難を乗り切るには、英明な将軍の親裁を得ること、また政治体制を改革し、親藩・外様を幕政に参加させることが必要だと考える幕政改革派のホープとなっていた。大名では、越前藩主松平春嶽が中心で、ほかに実父の前水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内容堂、宇和島藩の伊達宗城ら、旗本では、土岐頼旨、鵜殿長鋭、永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨ら非門閥の開明派幕吏だったといわれている。

◆南紀派

慶福は8歳だったが、幕政は従来通り譜代と旗本(将軍家勢力)で運営すればよく、将軍は血筋が正しければよいとする守旧派に推されていた。南紀派は彦根藩主井伊直弼を中心とする溜間詰譜代大名だった。特に、井伊は慶喜の実父斉昭とは開国問題で激しい対立関係にあった。

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B.約勅許問題
(安政5/1857)

将軍:家定 首席老中:堀田正睦
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

◆老中堀田の条約勅許奏請

幕府は日米修好通商条約の内容が決まった時点で、調印の勅許を得ようとした。そもそも鎖国は徳川幕府の「祖法」であり、開国に勅許は必要なかったが、諸大名のあいだに「条約調印は国家の重要時なので勅許を得るべきだ」との意見が多く、これを抑えるための勅許奏請だった。当然、幕府は短期間で勅許を得られると思っていた。安政5年(1857)、幕府は首席老中堀田正睦、勘定奉行川路聖謨、目付岩瀬忠震を京都に派遣した。

◆勅許獲得の失敗

ところが孝明天皇の強固な意志もあって、勅許は得られなかった。それどころか、逆に「再度、御三家を始めとする諸大名を諮問せよ」との勅書が下賜されてしまった。必ずしも必要ではなかった勅許奏請は、失敗に終わったことにより、かえって幕府を追い込む結果となった。

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C.安政5年の政変:井伊直弼の大老就任
(安政5〜6/1858〜9)

将軍:家定→家茂 大老:井伊直弼   首席老中:堀田正睦
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠⇒近衛忠煕⇒九条尚忠


伊直弼の大老就任

勅許獲得に失敗した堀田の帰府から3日後、彦根藩主の井伊直弼が突然大老に任命された。井伊の大老就任は、堀田の留守中に、南紀派の老中の根回しによってひそかに進められていた一種のクーデターだったといわれている。井伊は大老就任後、懸案の将軍後継問題と条約勅許問題にけりをつけ、一橋派の弾圧にのりだした。

◆将軍指名:一橋派の敗北

井伊は、大老就任から1週間もたたない安政5年5月1日、第13代将軍家定の後継に、自派の推す紀州藩主徳川慶福(=家茂)を指名することに成功した。7月、家定が死去し、井伊の擁立した慶福が家茂と改名して第14代将軍に就いた。

◆通商条約の無断調印

さらに、安政5年(1858年)6月、大老井伊直弼は勅許(天皇の許可)を得ずに日米修好条約を締結した。

実は直弼は勅許を得ることにこだわり、条約調印を延期し続けていた。しかし、アロー号事件で清と交戦していた英仏が勝利の余勢をかって日本におしかけるかもしれないとの情報がアメリカ船からもたらされ、驚いたハリスが条約の早期調印を主張しだした。結果、井伊は「万策つきれば調印してもよい」との内諾を交渉の全権担当者岩瀬忠震らに与え、岩瀬は勅許を待たずに調印した。

勅許を奏請しておきながら無断調印をしたことに対して、尊攘激派は激しい怒りを示した。外国を毛嫌いする孝明天皇は怒りのあまり、譲位の意思を表明するほどだった。

大老井伊直弼の一橋派弾圧

直弼は政敵である一橋派の徳川斉昭をはじめとする関係諸侯を、勅許なしの条約締結を詰問するために定められた日以外に登城したこと(不時登城)を理由に隠居・謹慎などに処した。このことは、ことに水戸藩尊攘激派の怒りを呼び、徳川斉昭の雪冤運動が起こった。さらに、一橋派の改革派幕吏も次々と左遷された。また、首席老中堀田も条約勅許不成功の責で罷免・隠居を命じられたが、実際には、堀田が一橋慶喜擁立に動いたことが原因だといわれている。

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更新:2000/5/20

<参考文献>
『逸事史補・守護職小史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『京都守護職始末』・『茨城県の歴史』・『徳川慶喜』・『開国と幕末政治』・『90分でわかる幕末維新の読み方』

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