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嘉永6(1853)〜文久2(1862)

開国開城7: 公武一和と和宮降嫁
(文久元/1861)

<要約>

大老井伊暗殺後、幕政を引き継いだ安藤信正・久世広周政権は、失墜した幕権回復をねらって朝幕間の関係改善(公武一和)を目的とした皇女和宮の降嫁をはかった。結果として、降嫁の勅許は降りたものの、その条件として、10年以内の攘夷実行を朝廷に対して約束した。降嫁を願うばかりに実行不可能な攘夷の期限を明言したことは、あとあとまで幕府の足を引っ張ることになった。

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長州藩の航海遠略策(開国論)

公武一和と皇女和宮降嫁
(文久1/1861)

将軍:家茂 首席老中:久世広周、 老中:安藤信正
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

◆公武一和策・和宮降嫁奏請の背景

大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後、幕府の実権を握った老中久世広周・安藤信正は、井伊派を罷免し、安政の大獄で処分された一橋派の復権をはかるなど、反井伊勢力との和解をはかった。さらに、朝幕間の関係改善をはかり、朝廷の権威を利用して反幕的な尊皇攘夷派を抑えるために、「公武一和」を推し進めようとした。公武一和の具体策として推進されたのが、大老井伊の遺策、皇妹和宮と将軍家茂との婚儀だった。

◆降嫁の勅許と攘夷の実行条件

孝明天皇は最初、難色を示した。これは(1)和宮にはすでに婚約者(有栖川宮)がいること、(2)和宮は幼く、江戸は蛮夷の集まるところとして恐怖していること、が理由である。しかし、侍従岩倉具視の説得もあり、ついに攘夷の実行という条件つきで降嫁を認めました幕府は、7、8年〜10年のうちには攘夷(鎖国復帰か攘夷戦争か)をすると回答した。幕府としては攘夷を約束して降嫁を実現させ、公武一和が成ったところで事情を説明して約束を取消すつもりだった。降嫁を願うばかりに実行不可能な攘夷の期限を明言したことは、あとあとまで幕府の足を引っ張ることになった。

文久元年10月、和宮は京都を出立し、翌2年2月に婚儀が行われた。

孝明天皇の降嫁不可の姿勢を説得した侍従岩倉具視は、幕府の降嫁奏請について、朝威を借りて覇権を張ろうとする政治的動機があると分析していた。そこで、朝廷側も降嫁を機会に政治的立場を強化することを考え、幕府の願いを聞き届ける条件として、攘夷の実行や、国家の重要事の奏聞を命ずることを天皇に奏上したのである。
当時在府中だった長州藩尊攘激派の久坂玄瑞は和宮降嫁を憤り、参府途上の藩主(今回の参府は航海遠略策周旋が大きな目的)を擁して和宮の東下を阻止する建白を行おうとした。久坂の熱意に感じた政務役の周布政之助は、自分が西上して、藩主に情勢を陳述しようと決意した(航海遠略策周旋を諫止しようとする目的もあった)。9月7日、周布は久坂をともなって江戸を出立し、10月25日、藩主に先行して東上中の長井と面会して時勢を論じ、江戸当役の益田右衛門介に久坂の建白書を渡した。しかし、藩は久坂の建白を容れず、逆に周布が勝手に持ち場を離れたことを罪として、周布・久坂に帰国を命じた。

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長州藩の航海遠略策(開国論))

更新日:2001/5/24

<主な参考文献>
『逸事史補・守護職小史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『維新史』・『開国と幕末政治』・『幕藩体制解体の史的研究』

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