| 嘉永6(1853)〜文久2(1862) |
<要約>
| 大老井伊暗殺(桜田門外の変)後の万延元年(1860)7月、西丸帯刀・桂小五郎ら水長両藩士数名が、長州藩船丙辰丸上で、幕閣改造を目的とする水長の盟約(「成破の盟約」)を結んだ。これはそれぞれの藩情から、藩同士の同盟とはならなかった。(A:水長の盟約(「成破の盟約」)。 翌文久元年(1861)3月、長州藩は直目付長井雅楽(ながい・うた)の「航海遠略策」(公武合体に基づく開国論)を藩論とし、これを掲げて中央政界にのりだした。長井は京都、江戸で公武・諸侯のあいだを周旋し、朝廷からも幕府からも賛同をえることができた。これを受けて、同年12月、長州藩主毛利敬親は老中に正式に建白書を出し、「今後、長州に公武周旋を託す」との将軍内旨をえた。中央政界における長州藩の発言力は強まった。しかし、長井の策は、尊攘志士には「因循」と不評で、長州藩内にも、吉田松蔭門下生久坂玄瑞らを始めとして長井の失脚を狙う勢力が存在していた。(B:航海遠略策) |
| 将軍:家茂 |
首席老中:久世広周、 老中:安藤信正 |
| 天皇:孝明 |
関白:九条尚忠 |
◆成破の盟約
大老井伊が暗殺された万延元年(1860)、長州藩有備館要掛として江戸に在った桂小五郎は幕政改革の必要を感じていた。同年6月、桂は藩船丙辰丸の艦長として江戸に来た松島剛蔵と談合し、<進んで大事を成すには水戸藩と結ぶしかない>と決した。7月8日、桂と松島は人を介して水戸藩尊攘激派(勅書不辺派)の西丸帯刀(さいまる・たてわき)らとの会合をもった。水戸の激派も勅書返納問題で窮地にあるときで、長州藩との連携は望むところだった。両者は水長の連携により幕政を正すことを論じた。西丸の主張は除奸薦賢であった。西丸は、幕政が老中に専断され、御三家・諸大名に人材がいても幕政に参与できない状況を問題視し、要路の奸を除いて在野の賢を薦めには、暗殺という非常手段に訴えるしかないという考えだった。桜田門外の変再び・・・である。 |
盟約が藩同士のものと成らなかった水戸側の理由として、水戸藩激派に中心人物として仰がれていた武田耕雲斎が、長州藩の誠意が確認できないし、また、水戸藩内においては斉昭がすでに死亡しており(万延元年8月に死去)、藩主慶篤は謹慎中であり、自分も謹慎中で幕府から疑われているときであるので、軽率な行動は取れない・・・と長井雅楽・周布政之助との会見を断ったという説(『維新史』出典不明)がある。 |
| 将軍:家茂 |
首席老中:久世広周、 老中:安藤信正 |
| 天皇:孝明 |
関白:九条尚忠 |
■長州藩士長井雅楽の航海遠略策
文久元年3月、長州藩直目付長井雅楽(ながい・うた)が「航海遠略策」を藩主毛利敬親に建言した。藩航海遠略策は、朝廷は公武一和を推進した上、幕府に命じて艦船をつくらせ、遠く海外への進出をめざすべきという、公武一和に基づいた開国論だった。長州藩は、3月28日、同策を藩論とし、これを足がかりに中央政界にのりだした。 |
航海遠略説は文久元年3月以来、長州藩の藩論だっがが、久坂玄瑞・桂小五郎ら尊攘激派はこれを幕府の違勅調印の罪を軽視して朝廷に攘夷の変改を迫るものとして激しく批難していた。たとえば、航海遠略説は「幕府の奸吏に交通し、其説客と相成、其違勅の大罪を淫辞邪論以申消し、幕吏に媚諂ひ、又幕吏の勢ひを借りて、己か立身出世を謀るものの姦計」であり、「御国威の海外に振ひ申すべきことは、御内治刑政の厳粛に有り。上下を欺して朝憲を軽蔑し、三家家門有志の諸侯方より在下の者をも無実の冤罪に陥いらしめ、違勅して外国と調印し、国家の覆没を招き候姦吏を差免し候ほどの刑政弛緩にして、一旦航海御開被成候とて、五大州悉く来りて、貢奉るべき謂れ有んや。然るを年を期して可待とは余り甚しき誣言にて、天朝を欺き奉らんとすること、嘆かはしき義なり」(出典不明。『維新史』引用部分より。適宜ひらかな&当用漢字に変更)と幕政改革なしの航海遠略を不可と論じている。(久坂ら松下村塾出身者にとって、長井は師匠の吉田松陰の江戸召還命令を伝えに帰国した人物であり、もともとふくむところがあったようだ←直目付という職務柄行ったことだが、久坂はこの1件をかなり恨んでおり、久坂らがのちに藩に提出した長井の弾劾書にも罪状の一つに挙げられている)。 長井と並ぶ藩政の実力者・政務役の周布政之助(すふ・まさのすけ)は当初は航海縁遠略策に賛同し、同策の藩論決定に際しては藩議の起草を行ったが、文久元年7月に上府すると、在府中の久坂らの入説を受けて反対に転じた。周布は航海遠略策を阻止するため、参府途上の藩主を諫止しようと、9月7日、久坂とともに江戸を発って西上した(和宮降嫁阻止の建白も目的だった)。しかし、勝手に任地を離れたことを罪とされて帰国を命じられ、翌文久2年1月、20日間の逼塞を命じられてしまった。久坂も帰国を命じられた。長井雅楽と尊攘激派との対立はここに一層激化した。また、周布の失脚は桂小五郎が中心となった水長盟約の実行を困難にし、老中安藤信正襲撃が水戸の単独行動となることにつながった。(⇒坂下門外の変) |
公武合体と和宮降嫁
桜下門外の変
更新日:2002/5/17
|
<主な参考文献>
『維新史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『茨城県の歴史』・『徳川慶喜増補版』・『明治維新人物事典』 |
|
|