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嘉永6(1853)〜文久2(1862) |
<要約>
嘉永7年(安政元、1854)、ペリーが再来航し、交渉の結果、幕府は、下田・箱館の開港、漂流民保護、アメリカの片務的最恵国待遇、領事赴任などを内容とする日米和親条約を締結した。続いて、ロシア、オランダ、英国との間に同様の和親条約が結ばれた。(A.日米和親条約) ペリーの初来航以来、幕府は、開明派官僚の人材登用をはかるとともに、沿海防備と洋式海軍の創設を中心とした国防(海防)改革や洋学の官学化を行った。(B:幕府の海防強化(安政の幕政改革)) |
将軍:家定(31) | 首席老中:阿部正弘(36) | 海防参与:徳川斉昭(55) |
天皇:孝明(22) | 関白:鷹司政通(66) |
◆ペリーの再訪嘉永7年(安政元、1854)1月、前年に渡した親書への回答を得るため、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来し、浦賀ではなく江戸湾に入港した。幕府は、諸大名・旗本への諮問の結果、当初、開国と攘夷の折衷案を採り、「ぶらかし」策をもってペリー再来に臨むことにしていた。しかし、アメリカ側が江戸湾内の測量を頻繁に行い、プレッシャーをかけ続けたこともあって「ぶらかし」は通用せず、幕府は、漂流民救助と炭水補給のみ承諾し、通商は拒絶するという方針を決めた。(★1)◆ペリーと林大学頭の交渉幕府は全権・林大学頭(はやし・だいがくのかみ)復斎らを使者に立てて交渉に臨ませた。ペリーは、日本を、漂流民を救助せず、海岸に近寄れば発砲する(モリソン号事件)人命軽視の国だと批判し、漂流船を救助するという万国共通の義務を果たさなければ日本を敵国(人類共同の敵)とみなし、戦争で雌雄を決するつもりだと述べた。(アメリカの敵は世界の敵・・・なんだか、今のアメリカも同じ^^;)。◆日米和親条約調印交渉の結果、ペリーは通商の要求は断念し(★2)、3月日米和親条約が締結された。日本にとって、はじめて結んだ近代的国際条約である。主な内容は次のとおり。
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海防参与だった徳川斉昭は日米和親条約締結には反対であり、締結後まもなく参与を辞任した。 |
容保は、ペリー再訪時にも、前説どおり、和親すべきことを主張した。 |
将軍:家定(32) | 首席老中:阿部正弘(37) ⇒堀田正睦(46) |
海防参与:徳川斉昭(56) |
天皇:孝明(23) | 関白:鷹司政通(67) | *年齢は安政2年(1855)時 |
◆安政の幕政改革ペリー来航以来、幕府も手をこまねいたわけではなく、開明派官僚の人材登用をはかるとともに、沿海防備と洋式海軍の創設を中心とした国防(海防)改革や洋学の官学化を行った(★1)。主な改革は次のとおり(主だった事業の完成が安政期であるため安政の幕政改革とも呼ばれる)。
◆安政の大地震安政2年(1855)10月2日、江戸は「安政の大地震」に襲われた。被害は甚大で、幕政改革の刺激となったといわれている。水戸藩邸では、徳川斉昭の腹心で尊王攘夷論者として全国的に有名だった藤田東湖が死亡した。その死は以後の水戸藩政のみならず、尊王攘夷運動の方向性にも大きな影響を与えたといわれている(東湖は尊王敬幕論で倒幕論ではなかったため)。⇒水戸藩かけあし事件簿◆堀田正睦の首席老中就任地震直後の9日、阿部正弘は、突然、首席老中を降り、佐倉藩主の積極開国派・堀田正睦(ほった・まさよし)が後継に就任した(阿部は老中に留任)。阿部の首席老中辞任幕府内外の人々に驚きをもたらしたが、その理由は明らかではないようだ。(★1)幕政参与の徳川斉昭は開国派の掘田を「蘭癖家」と呼んで老中入閣にも反対したほどで、両者の中は良好とはいえなかった。安政3年初、斉昭はとうとう特命のない限り登城には及ばすとの達しを受け、幕政から遠ざけられてしまった。 |
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安政の藩政改革:海防参与を辞任した斉昭は、軍備の充実・強兵を主眼とする数々の藩政改革を行った。水戸藩当主は斉昭の長男慶篤だったが、斉昭は院政をひいたのである。改革の主なものは・・・
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(1.ペリーの浦賀来航) (3.総領事ハリスと通商条約)
更新:2000/5/20
<主な参考文献>
『逸事史補・守護職小史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『会津松平家譜』・『京都守護職始末』・『会津歴史年表』・『幕末政治家』・『覚書幕末の水戸藩』・『開国と幕末政治』・『幕藩体制解体の史的研究』 |
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