4. 山南敬介(1)新選組「局中法度」は創作?&隊規成立時期 |
一般に新選組の山南敬介は、脱走を禁じる局中法度により切腹を命じられたとされています。その局中法度、実は、山南敬介脱走時には存在しなかった可能性があります。 ■「局中法度」は子母沢寛の創作 「局中法度」の初出は昭和4年の子母沢寛の作品『新選組始末記』で、文久3年3〜4月の京阪における隊士募集で人数が増えたため、定められたといいます。その5ヶ条は以下のとおりです。 一、士道に背きまじきこと 一、局を脱するを許さず 一、勝手に金策いたすべからず 一、勝手に訴訟取扱うべからず 一、私の闘争を許さず 右の条々あい背き候者は、切腹申し付くべく候なり しかし、子母沢寛以前に出版された書籍、また現在公表されている新選組関連史料をみるかぎり、上記の言い回しによる隊規、また「局中法度」という言葉はみあたりません(わたしより遥かに多くの史料を検証されているライターの方も一様にそういわれています)。この有名な言い回しも、「局中法度」という言葉も、作家子母沢寛の創作だとされています。 |
■「局中法度」のモデル−四か条の禁令 局中法度がまったくの虚構というわけではなさそうです。子母沢は、おそらく晩年(大正年間)の永倉新八の回想をもとに記者の書いた読み物『新撰組永倉新八』を参考に創作をしたとされています。これによると、四ヶ条から成る禁令が存在しました。 第一士道をそむくこと、 第二局を脱すること、 第三かってに金策をいたすこと、 第四かってに訴訟をとりあつかうこと、 この四ヶ条にそむくときは切腹を申しつくること、またこの宣告(注:切腹の宣告)は同志の面前で申しわたすというのであった 「私の闘争を許さず」は子母沢フィクションということになります。また、おもしろいことに、明治の初期に永倉が記した直筆の『浪士文久報国記事』、また明治44年に発刊され、『顛末記』の底本ともなっている鹿島淑男の『新選組実戦史』にはこれらの法令については具体的に触れられていません。 |
■「四か条の禁令」成立時期 さて、この禁令の成立時期はいつなのでしょうか? (1)文久3年4月頃説(第一次京阪隊士募集後) 小説などでよく使われているのが、永倉の顛末記の「文久3年4月頃」説です(新見・山南は隊規違反で切腹させられたことになっています)。しかし、これは晩年の記憶であり、しかも直筆・直談でないところから、記憶違いや脚色の可能性があり、正確性には疑問の残るところです。 一方、永倉の直筆『浪士文久報国記事』には、「(新見は)法令を犯し殊に乱暴はなはだしく、芹沢、近藤説得いたすといえども更にききいれずついに切腹いたさせる一同の論・・・」となっており、文久3年9月頃までにはなんらかの隊規があった可能性をうかがわせます。しかし、「法令を犯す」即「切腹」でない点は、四か条の禁令が存在(発動)していなかったようです。 (2)元治元年6月頃説(池田屋事件直前) 『時勢叢談』という同時代史料に、「壬生浪士掟は出奔せし者はみつけ次第同志にて討ち果たし申すべしとの定めの趣」という風聞を記した一節があります。問題になっているのは「脱走」だけで、また脱走者は切腹ではなく討ち果たす・・・という点に注目したいです。ここでも、切腹をともなう上記四か条の禁令はまだ存在(発動)していなかったようです (3)慶応元年5月頃説(第一次江戸隊士募集後) 西本願寺の侍臣で御陵衛士と交流の深かった西村兼文は、『新撰組始末記』において、慶応元年隊伍の編成時(後)に、「更に規律を設立し」「厳重に法令を立て、その処置の辛酷なること・・・」と記しており、切腹例を列挙しています。(ちなみに、慶応元年5月以前の事件である芹沢・新見(田中)・山南の死の理由については、当然ながら法令違反の切腹とはされていません)。 *** わたしは、「切腹をともなう四か条の禁令」の成立については西村の慶応元年夏の編成以降説をとっています。なぜなら、文久3年4月後に入隊してその後脱走した隊士(のちの御陵衛士の阿部十郎)が慶応元年の夏の編成時には復隊しており、切腹どころか伍長・砲術師範にとりたてられているからです。それ以前になんらかの法令はあったが、その運用は公平ではなく、かなり恣意的だったと思っています。 |
出典史料 (成立年) |
法令成立時期 | 法令のなかみ |
『時勢叢談』 (元治元年の同時代記録) |
元治元年6月頃池田屋事件前 | 「壬生浪士掟は出奔せし者はみつけ次第同志にて討ち果たし申すべしとの定めの趣」 |
永倉の直筆回想談 『浪士文久報国記事』 (明治初期) |
少なくとも文久3年9月以前 | 「(新見)法令を犯し殊に乱暴はなはだしく、芹沢、近藤説得いたすといえども更にききいれずついに切腹いたさせる一同の論・・・」法令がなにかは説明されていない。また法令違反が即切腹とはされていない。 |
西村兼文の新選組通史 『新撰組始末記』 (明治27年脱稿) |
慶応元年隊伍の編成時/以降 | 慶応元年の隊士募集で飛躍的に隊士数がのびたため「更に規律を設立し」「厳重に法令を立て、その処置の辛酷なること・・・」と切腹処分を列記。切腹をともなう法令の存在を示唆。 |
『新選組実戦史』 (明治44年刊行) |
少なくとも文久3年9月以前 | 「(芹沢も新見も)隊の軍法を犯すことたびたびであった。勇はついに土方とともに新見に迫り、軍法に照らして詰腹を切らせた」法令がなにかは説明されていない。 |
永倉の回想をもとにした読み物 『新撰組顛末記』 (大正2年連載) |
文久3年4月頃京阪での隊士募集後 | 「新しい面々は烏合の勢、これを統率するにはなにか憲法があらねばならぬ。そこで芹沢は近藤・新見のふたりとともに禁令を定めた。それは第一士道をそむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四かってに訴訟をとりあつかうこと、この四ヶ条にそむくときは切腹を申しつくること、またこの宣告は同志の面前で申しわたすというのであった」 |
この件に関する議論は上記資料を熟読した上で、居酒屋ばくまつまでお願いいたします。
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