3. 御陵衛士(3)同志の会津藩邸横死事件-2 |
元治元年6月14日、新選組脱退を希望していた尊王派隊士(御陵衛士同志)が会津藩邸で殺害されました(切腹説もあります) 尊王派10名は前日会津藩に脱退願いの上書を出しましたが、応対した公用人に「また明日参れ」といわれていました。14日明け方、善後策を話し合いにきた彼らに、御陵衛士首領の伊東は「会津行きはどうもよくない。いかにも不安だ。近藤はどんな策略を設けているかわからない。いったん京都を去って潜伏し、時勢を待つべきだ」と説得しましたが、彼らは「よもや守護職邸で策略が行えるものですか。決して気遣いはありませんん」と出かけたそうです。 朝の10時ごろに守護職邸についた茨木らは公用方の諏訪に面会しようとしましたが、取次ぎの者は「諏訪は公用で外出しているので待たれよ」と言ったそうです。茨木・佐野・中村・富川の4人と残りの6人は分けられ、お互いかなり離れた座敷に通されたとか。 午後になっても諏訪が帰ってこないので酒肴が出てもてなされ、夕方になっても諏訪が帰らないので茨木らがほとんどまちあきた気分になったころ、突然、背後から障子越しに数本の槍を突き出して4人を刺したそうです。不意うちだったが彼らは深傷に屈せず抜き合ったそうです。佐野は大石鍬次郎に反撃して顔にきりつけたものの、致命傷を負わせることはできなかったそうです。茨木・中村・富川は最初の傷が深く、一矢も報いることができなかったとか。残りの6名は不和雷同者だし新選組としても用がない者であるとして、いったん本願寺に連れ帰ってから放逐処分としたそうです。 しかし新選組は事件を隠蔽するために「茨木らは会津侯の説得によって帰隊を承知したが、初志を貫徹できなかったのは面目なく、却って君命をはずかしめることを恐れて自殺した。士道のわきまえのある行いであるので亡骸を隊中へ申し受けたのである」としてこれまでになく立派な葬式をあげて(新選組隊士の墓所である)光縁寺に埋葬しました。 佐野は兼ねてから死を決していたのか懐中に辞世を残していました。 「ニ張の弓ひきまじと武士のただ一筋におもいきる太刀」(武士は命を賭けてもニ君につかえずというような意味) 以上、御陵衛士と懇意だった西本願寺侍臣西村兼文著『新撰組始末記』より 佐野らの死については次のような記録もあります(口語訳・要約しています) ★佐野・茨木ら中心4名が新選組との談合の最中に中座し、別室で切腹した。驚いた新選組が遺骸を引き取ろうとしたところ、佐野の死骸が起き上がって大石鍬次郎に斬りつけた。別の隊士が佐野に止めをさしたが、縄をかけて駕篭に入れようとしたところ、佐野は縄にかみついた。残りの6人は新選組に連れ帰った上で、追放した。(『丁卯雑拾録』−『新選組日誌下』引用箇所) ★過日、新選組脱退を願い出た10人のうち、4人は会津藩邸にて殺害された。6人は東下したが、復讐を計画しているとのことだ。(8月9日付け長州藩士『品川弥二郎日記』) ★新選組に残留した伊東の同志は、近藤らとしばしば激論をした。脱退を決意して伊東を訪ねたが、近藤から使者が来て、妾宅で議論した。結論がつかず、近藤の提案で会津邸に行くことになった。佐野らは、会津候が面会するというのを待ちつづけていたが、夜12時過ぎに障子越しに背後から槍で殺害された。佐野は深手だが死んだふりをし、死を確認するため部屋に入って来て、土足で佐野の顔を蹴った大石に斬りつけた。(『秦林親日記』) ★佐野ら4人は会津邸で切腹しようとしたところ、襖の陰から槍で突かれた。佐野は死んだふりをして、大石が近寄ったところを斬りつけた。それから4人は惨殺された。彼らは分離のときに、我々が残したために志を立てられずに終わった。(阿部隆明談『史談会速記録』) |
このように、佐野らの死には切腹説と殺害説があります。しかし切腹説をとると、佐野が生き返って大石に反撃したり、止めを刺された後も自分を縛る縄にかみついたりと、怪談もどきの不自然な話になってしまいます。新選組が殺害を隠蔽するために切腹説を流したという見方の方が自然ではないでしょうか。(新選組=近藤らが自らの犯行を隠蔽するために流した噂の実例としては、芹沢暗殺を長州の犯行としたり、伊東ら殺害を土佐の犯行としたりという件が挙げられます)。 また、懐中に辞世があったので切腹であるとする人もいますが、油小路に向かった服部も懐中に詩文稿をしのばせていたといいますので、切腹説の根拠とはなりえないでしょう。 なお、島田魁の証言として、伊東はこの始末に激怒し、彼らを死に追いやった近藤に復仇を誓ったともいいます(『江戸会誌』)。また、伊東は、以後、約定を守ることはせず、彼を頼って脱走してくる隊士は受け入れて、匿ったようです(清原らの例)。 佐野らは新選組の墓所である光縁寺に埋葬されましたが、彼らを同志とみなす御陵衛士たちは、新選組退京後の慶応4年2月、彼ら4名を伊東ら油小路で殺害された4名とともに、戒光寺に改葬しています。 |
検証 『新選組日誌』は切腹説です。その主張の展開はこうなっています。 「<解説> 西村兼文『新撰組始末記』は佐野ら四人の死について「(中略ヒロ)」とあり、新選組によって殺害されたものとしているが、根拠はない。諸史料の伝えるとおり、四人は自発的に切腹したとみるべきだろう」(『新選組日誌下』) しかし、実は、切腹説にも根拠ありとはいえません。この解説をみると西村以外の諸史料はすべて切腹説のようにみえますよね。実際、新選組日誌に引用されているのは殺害説(西村の説)1に対し、切腹説2(風説書(『丁卯雑拾録)』と新選組隊士の書簡)となっています。ところが、上にも紹介したように、御陵衛士同志の回想・品川弥二郎の日記など、殺害説をとる諸史料(資料)が複数あるのです。また、新選組が切腹説を流したとしたら、風説書や隊士の書簡に切腹説が採用されていて当然です。「諸史料の伝えるとおり、四人は自発的に切腹したとみるべきだろう」は論理的な結論とはいえないのではないでしょうか。 また、この解説は、切腹説の補強(切腹にいたるまでの心情)として 「茨木司について、同志の阿部十郎はこう語っている。 ・・・(略ヒロ)あまり茨木が正直すぎまして物に迫りましたので遂に近藤に説伏せられましたようでございます。それで止むを得ず切腹しようと掛かりました」(『新選組日誌下』) と続けています。もちろん、これは「切腹にいたるまでの心情」の参考としてあげてあるのですが、ここだけ読むと同志の阿部十郎も切腹説を唱えているように思えませんか?ところが、実は、阿部はこう続けています。「それで会津守護屋敷に於きまして屠腹しようという場合になりまして、此四人は襖の陰から槍で突かれた」。阿部は、切腹説ではなく殺害説なのです。「それで」以下は『新選組日誌』では省略されており、阿部の殺害説は紹介されていません。最後まで引用すると印象は変わるのではないかと思うのですが・・・。 なお、切腹説の『丁卯雑拾録』(風説書)には佐野の死体が起き上がって斬りつけたり縄を食い破るオカルト・エピソードがついてくるのですが、これについては、『新選組日誌』は合理的な説明はつけず(つけられないので?)、「それにしても、佐野がよみがえったという話はまるで怪談である。・・・(ヒロ略)その怨念のすさまじさには背筋も凍る思いがする」と「怪談」とはしているもののそれを事実として肯定しています。殺害説がいうように、深手を負ったが死んだふりをして斬りつけたとするほうが、合理的な解釈だと思うのですが^^;、どうでしょう? <参考>『史談会速記録』・『史籍雑纂』・『新選組日誌下』・『新選組史料集コンパクト版』 |
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