詩歌・建白トップ  トップ


A-1 文久元年(推定)7月27日、柴兄宛三木荒次郎(三樹三郎)書簡

こちらは、三樹三郎(当時三木荒次郎)が江戸に在った文久元年(注1)に「柴御兄様」(注2)宛に認めた書簡で、上京前の三樹三郎の考え方や行動、兄伊東甲子太郎(当時大蔵)の消息がうかがえる貴重な資料です。(1)三樹が農業の出来に関心を示していること(やはり父親が郷目付だったから?)、(2)深川の伊東道場が小身の旗本規模で、伊東は塾頭であること、(3)三樹が桜田門外の変に関わった水戸浪士の処刑を「古今の豪傑、実に惜しむべきことなり」としていること、(4)三樹が外国公使館の建設を歎いていること、(5)脇差を送ることを頼んでいたこと、などがわかります。この書簡の一部(黒字部分)の書き下し文は「伯父伊東甲子太郎武明」に収録されていますが、その前後(青字部分)は同書では省略されていますので、未公刊かもしれません。(市居浩一氏は、一部を口語訳で紹介されています)

解読文(暫定版)  画像(部分)はこちら
 ・・・
 無御座候哉、御序に宜敷
 被仰遣可被下候。猶又
 当年は田方等十分
 出来候砌、○○仕候共
 此後天変も無之候はゝ
 東国は豊作と奉大悦候
一於与志事も同藩田村
 要造と申者縁談有之
 候而取極申候。尤引移
 の儀は、当時兄金沢
 重右衛門同居に而、家内多
 に御座候間、家宅出来
 次第引取候積約束仕候。
 然は暮哉早春にも可相成
 哉。其内は深川伊東に而
 達て頼度趣に付、兄も
 入熟罷在候後故、来る八月
 先生方へ見習旁相頼
 申積に御座候。小子も両三度
 深川に越候得共、中々大家
 小身の御旗本位の様子に御座候。
 熟生も十人余御座候得共
 大蔵熟頭罷在候得は
 都合も宜候と存候。当分の事故
 遣し置申候。
一幕府都下の形勢、先
 当節別而の事も無御座候。
 昨年三月桜田一件にて御預け
 に相成居候者、当廿六七両日
 死刑に取行申候。古今の
 豪傑、実可惜事也。
一外国人旅館、此度品川
 御殿山へ被下、追々出来
 仕候由に御座候。是は歎息
 の儀に御座候。
一私短刀の儀、先便相願
 候得共、御不都合に御座候はゝ
 此方にて為打可申、必御配慮
 被下間敷候。
一当秋抔江戸見物等可○
 御出府の御志無御座候哉。私も
 様子により当暮には帰郷
 仕候様相可成と存候得は
 御心懸も御座候はゝ、当年
 中御登有之間敷哉。
 乍末御姉妹へも宜敷御○
 ○○○奉可申候。御情
 ○○は可申上候
         以上


七月廿七日 三木荒次郎


柴  御兄様
     御左右

注:三樹三郎ご子孫の鈴木家所蔵の書簡から解読しました。また、この書簡の解読については、京都在住の幕末研究家石田孝喜氏・西宮市郷土歴史資料館の江藤氏に多大なご協力をいただきましたm(..)m。なお、句読点は管理人が任意につけました。○部分は解読が難しく、現在も挑戦中のくずし字です。解読でき次第、追加します。
注1:「昨年桜田一件」は万延元年3月の桜田門外の変を指しますので、書簡の年代は翌文久元年と推定。
注2:この書簡は、一般に関家宛とされていますが、宛名のくずし字は、「関」ではなく「柴」に読めるので、とりあえず「柴」としておきました。
注3:文中の「於与志(およし)」は伊東兄弟の妹(須磨)のことです。→「思い出話:祖父の妹・お須磨おばあさんのこと」
(2004.10.24)

次へ (A-2)

詩歌・建白トップ  トップ