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こちらは、三樹三郎(当時三木荒次郎)が江戸に在った文久元年(注1)に「柴御兄様」(注2)宛に認めた書簡で、上京前の三樹三郎の考え方や行動、兄伊東甲子太郎(当時大蔵)の消息がうかがえる貴重な資料です。(1)三樹が農業の出来に関心を示していること(やはり父親が郷目付だったから?)、(2)深川の伊東道場が小身の旗本規模で、伊東は塾頭であること、(3)三樹が桜田門外の変に関わった水戸浪士の処刑を「古今の豪傑、実に惜しむべきことなり」としていること、(4)三樹が外国公使館の建設を歎いていること、(5)脇差を送ることを頼んでいたこと、などがわかります。この書簡の一部(黒字部分)の書き下し文は「伯父伊東甲子太郎武明」に収録されていますが、その前後(青字部分)は同書では省略されていますので、未公刊かもしれません。(市居浩一氏は、一部を口語訳で紹介されています) |
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注:三樹三郎ご子孫の鈴木家所蔵の書簡から解読しました。また、この書簡の解読については、京都在住の幕末研究家石田孝喜氏・西宮市郷土歴史資料館の江藤氏に多大なご協力をいただきましたm(..)m。なお、句読点は管理人が任意につけました。○部分は解読が難しく、現在も挑戦中のくずし字です。解読でき次第、追加します。 注1:「昨年桜田一件」は万延元年3月の桜田門外の変を指しますので、書簡の年代は翌文久元年と推定。 注2:この書簡は、一般に関家宛とされていますが、宛名のくずし字は、「関」ではなく「柴」に読めるので、とりあえず「柴」としておきました。 注3:文中の「於与志(およし)」は伊東兄弟の妹(須磨)のことです。→「思い出話:祖父の妹・お須磨おばあさんのこと」 |
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