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慶応2年(推定:注1)の7月末頃のある日、伊東と三樹は公卿大原重徳を初めて訪ねました。大原は兄弟の勤王の志に感じ入り、「夜の鶴子を思ふ闇に迷はぬそげにたのもしき大和魂」という和歌を短冊に書き、国元の母こよに贈るようにと下賜しました(写真はこちら)。大原は伊東にも歌を詠んで短冊を下賜しました(こちらは伝わっていません)。この書簡は、それらの和歌をこよと関家(伊東らの姉ことの嫁した土浦藩士)に贈るとともに、彼らの近況を知らせたものです。手紙からは、大原に「誠の志」を認められて踊る心と、よりいっそう「只々天朝へ御奉公いたし候一心」を固める様子、そして故郷の母を思う心が伝わってくる気がします・・・。 |
判読 by 管理人(注2) | 口語訳 by 管理人 |
日にまし秋冷相催し候得とも ますゝゝ御機嫌よく入らせられ 候事と幾斗り幾斗り御目出たく 存上○候次に私共両人始 一同無事に罷在候間御安心 おぼしめし下さるへく候さて 去る六月上京ののち御文申上 候得とも御ととき申候哉奉伺候 此度御扶持方金子さしあけ 申へく筈の所両人共日々 国事に周旋暇なく間に合兼 候間 九月中にはさしあけ申へく 関氏御両人へ宜敷御ねかひ申上候 一此たんざくは大原三位 金吾将軍と申御公家様 私共両人の誠のこころざしを 御かんじ遊ばされ候とてふる さとの母によみて遣はし 候間おくり候様にとて被下候 たんざくに候ゆへさし上 申候間 御たいせつにはこへ 入御しまへ置なさるべく候必々 人に御つかはしなさるましく候 我々風情のもの中々右やうの 御うた抔頂戴致し候事は 実に身にあまり有がたき事 家のたからに御座候へは御歓び 可被下候 又一枚のも右の 御方様より私へ被下候御歌ゆへ 関氏へ御送り申候且又のしも 御手つから両人に被下候御品ゆへ 是もさし上候 一長州の方も只今のけい勢い にては御追討はおほつかなく候 京都大坂は何ぶん一日もお たやかならす候得共我々共は(注3) 只々 天朝へ御奉公いたし 候一心に御座候間少しも別条は 御座なく候間 御安心被遊御身 をのみ御御大切に御いとひあそはし 候やうくれゞゝもねかひ上候 猶皆様へは別に御文もさし あけす候間よろしく願上○候 先は荒々申上○候 目出度かしく 甲子太郎 八月四日 三郎 拝 御母上様 関御両人様 |
日に日に秋の冷たさが増してまいりますが、ますますご機嫌よくおられることと、非常に目出度く存じ上げます。次に私どもはニ人を始めとして、一同無事でおりますので御安心くださいますようお願いいたします。さて、去る6月に上京の後、御文を差し上げたのですが、お手元に届き申しましたかどうかお伺いいたしたく思います。この度、御扶持から金子を差し上げ申すはずでしたが、二人とも日々国事に周旋しており暇がなく、今回は間に合い兼ねます。9月中には差し上げますので、関氏の御ニ人(=関夫婦?)によろしく御願い申し上げます。 一、この(同封の)短冊は、大原三位金吾将軍(=大原重徳)という御公家様が、私ども二人の誠の志をお感じ遊ばされ、故郷の母に歌を詠んで遣わすので送るようにと下された短冊でありますゆえ、(母上に)差し上げ申しますので、御大切に箱に入れて、おしまいになっておかれますように。必ず必ず他人にはおやりにならないでください。我々風情の者が、このような御歌などを頂戴致すことは、実に身にあまるありがたい事で、家の宝でございますので、御歓びくださいますよう。また別の一枚は右の御方様(=大原)から私へ下された御歌で、こちらは関氏に御送りいたします。また、のしも(大原が)直接二人に下さった御品ですので、こちらも差し上げます。 一、長州の方も只今の形勢では御追討(=長州再征?)はおぼつきません。京都・大坂は何分一日たりとも穏やかではありませんが、我々どもは(=同志含め)、ただただ朝廷へ御奉公いたす一心にございます。少しも別状はございませんので、御安心遊ばされ、御身をのみ御大切に御いとい遊ばす様、くれぐれもお願い申しあげます。猶、皆様へは別途御文を差し上げませんので、よろしくお願いいたします。先ずはあらあら申し上げます。 |
注1:書簡の推定年について。三樹三郎娘婿の小野圭次郎著「伯父伊東甲子太郎武明」では、伊東らは慶応2年7月末に大原の門を叩いたとされていますが、書簡自体には年が明確に書かれていないので絶対に慶応2年だとはいいきれません。しかし、城多菫の遺稿である「昨夢記」によれば、伊東は同年7月以前に、典薬寮医師山科元行の知遇をえていたようですので、管理人はその山科の紹介で7月下旬に大原の門を叩いた可能性はあるのではないか・・・と考えています。 注2:鈴木家蔵の原本を管理人が写真に撮らせていただいたものを素人の管理人が判読しました。連名になっていますが、伊東直筆だと伝わっています(素人目にも、とてもきれいで読みやすい字です)。写真は後日UPしますのでお楽しみに!○は3箇所とも同じ字で、「伯父 伊東甲子太郎武明」では「参らせ」になっています。 注3:「我々共は」は、「伯父伊東甲子太郎武明」では抜けていた言葉です。 |
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誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士