誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士

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A-3 元治元年10月下旬(推定)、鈴木こよ宛の伊東うめ書簡

伊東甲子太郎は元治元年10月15日(1864年11月14日)、京都に上るために江戸を発ちました(こちら)。伊東の弟である三樹三郎のご子孫のお宅には、伊東の妻うめが姑のこよに伊東の出立を報せた書簡の断片が残っています。書簡からは、動乱に身を投じる伊東を案じる気持ち、伊東を恋しく思う気持ち、江戸に残されることを不安に思う気持ち、それらをおさえて気丈にふるまう、武士の妻としてのうめの健気な心情が、せつせつと伝わってくる気がします・・・。

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大蔵事も同様せはしく
出立いたし候まま 是も
御文差上不申 出立後私より
委細申上候様申付候
出立の日は当月十五日に
御座候 大蔵に附添候人
々は三木氏並内海中
西外に大蔵をしたひ
候人六人 是は誠に
たしかの人々に而 全
国家のためを思ひ とも
に心さしを立候人々故
誠に大蔵の力になり候
人々故 私事も安心いたし居候
まま かならすかならす御心配なく
安心願上候 道中入用又
御関所御手形も
【残らず会津より渡り
一同いさましく】出立
いたし候まま それに而
私も心をはけまし 心
よくわかれをつけ候
早速御文差立度存候得共
出立の後もいろいろ
【取残し候用事多く・・・】
  (口語訳)
・・・
大蔵も同様にせわしく出立
いたしましたので、御手紙を
(御母上に)差し上げず、
出立後に私から委細を申し
上げるよう申し付けました。
出立の日は当月十五日でした。
大蔵に付き添う人々は三木氏、
並びに内海、中西、その外、
大蔵を慕う人が六人。これらは
まことに確かな人々で、
全く国家の為を思い、
共に志を立てた人々で、
まことに大蔵の力になる
人々ですので、私も安心
いたしております。(お母上も)
必ず必ずご心配されることなく、
御安心なさいますよう。 
道中の入費や関所手形も
【残らず会津藩より渡され、
一同は勇ましく】出立
いたしましたので、私も
それに心を励まし、快く
別れを告げました。早速御文
差し上げたく存じましたが、
出立後もいろいろ【取り残した
用事が多く・・・】

伊東は旅立った翌日の10月16日、「忘れめや恋しきものをかり枕旅寝の夢に袖ぬらしつつ 」という歌を詠んでいます。彼も残してきた妻を思い、眠れぬ夜を過したのかもしれません・・・。

注:原本から管理人が判読しました。一部、紙がよれて文章が読みにくい箇所がありましたので、市居浩一氏『高台寺の人びと』所収の写真を参考にしました。また【】内は現在では、失われてしまった部分です。『高台寺党の人びと』の写真でも読みにくかったため、小野圭二郎著「伯父伊東甲子太郎武明」の翻刻文で補いました。

書簡は、傷みがひどく、撮影させていただくために紙を開くだけでも破れてしまいそうで、手が震えました。一部、よれてしまったのも、その部分を無理に開くのがこわかったからでした。ほかにも断片があり、解読中ですが、前後のつながりがわからないので、意味のある文章になりません(涙)

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