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時勢大に巡り志士人物群り起ちて天下将さに多事ならんとす。元治元年十一月十二日忠良及び同志加納道之助(名は鵬雄、伊豆の人)、服部三郎兵衛(名は武雄、赤穂藩士)、佐野七五三之助(尾張の人)、毛内有之助(監物)等伊東甲子太郎に率いられて江戸を発し同月三十日京師に着し、勤王の大事に死力を尽さんことを誓ひ新選組に投ず。新選組隊長近藤勇大に喜び甲子太郎を挙げて参謀となす。爾後甲子太郎、忠良、毛内監物、服部武雄、加納道之助、佐野七五三之助、内海忠利、佐原利秀、秦林親、阿部隆明、新井一業、富山弥兵衛等の同志と共に勤王の大儀を明かにせんと日夜劃策怠らず、甲子太郎其の首領たり。暫くして甲子太郎は隊長近藤勇の志佐幕にあるを知り心大に喜ばず、遂に慶応三年六月八日甲子太郎、忠良外十四人と共に新選組を脱し、東山高台寺に拠り孝明天皇御陵の衛士となりて一意勤王の事に奔走す、称して高台寺組と云ふ。 或日甲子太郎忠良二人公卿大原重徳公を訪問せる時、公自ら左の和歌を短冊に書し、之を国元の母に贈るべしとて賜はりたり。 夜の鶴子を思ふ闇に迷はぬそけにたのもしき大和魂 慶応三年十一月十八日甲子太郎、近藤勇の凶刃に斃れしかば、忠良無念止み難く如何にもして兄の仇を報ぜんと苦心惨憺の際、薩藩の同志富山弥兵衛忠良に○りて曰く、「万一貴殿の身誤りあらば、誰か令兄甲子太郎の志を継がんや。徐ろに大事を謀るに如ず」と。忠良は其の言の理あることを知り報仇の挙を思ひ止まり、富山に伴はれて薩藩の君側中村半次郎に到る、居ること数日にして中村曰く、「本邸は人の出入多し、人目に触るに憂あり、伏見の下屋敷に行きて大山弥兵衛なる者に頼るべし」と、即ち其の夜駕籠に乗り中村半次郎、村田新八、篠原国幹等七八人の警護する所となりて、伏見下屋敷に移る。長屋を賜はり、居ること数日にして志士之を伝へ聞き同志の来集する者日に加はる。忠良の薩藩屋敷にあるや西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹等と深く交り殊に西郷より恩顧を蒙ること少からず、或日忠良西郷の依頼にて大村益次郎の許に行きし時、大村書簡を書きつつ応対したる故、忠良其の無礼なることを詰責せんと欲せしが之を忍びて帰りたることあり。当時勤王の士相会して大事を議するや、各自帯刀に手を当てて論議し其の進行如何によりては白刃に訴ふる決心を以てせり。 伏見に幕府の奉行邸ありしが、或日近藤勇土方歳三と共に乗馬にて之に赴くを薩藩邸の同志に注進するものあり、一同之を聞き倉皇其の後を徒歩にて追ひしが遠く去りたり、富山乃ち馬を走らして追ひ発砲して其の背部を撃ちたれども遂に之を逸したり。斯くて忠良等志士の薩藩下屋敷に居ること近藤等の知る所となりたれば、何時彼等の襲ふ所となるやも計り難きを以て、京都今出川の上屋敷に移され、忠良は遠藤橘次の屋敷に身を寄す、次て長屋を賜はり大に歓待せられ、暫くここに潜伏することとなれり。
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注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。旧字は適宜当用漢字になおしています。改行は原文通り。○は解読中の文字です。 注2:参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。それらと鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされていることはいうまでもありません。 「故鈴木忠良伝」の転載・転用は絶対に禁止です こちらは、市居浩一氏所蔵の謄写版コピーを、管理人自身が市居氏及び謄写版所蔵者の鈴木家の許可をいただいてを掲載させていただいておりますので、管理人による転載・転用許可は一切出せません。ご理解ください。 |
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「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」