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侍医山科能登之助の斡旋によりて忠良の勤王の志篤きことを上聞に達せらる。又同氏より侍従綾小路卿を訪ぬべきことを勧誘せらる。乃ち慶応四年正月三日同氏秦林親と共に河東なる綾小路邸を訪問す。綾小路卿大に悦び談国事に及ぶ、曰く「時勢既に切迫す、臣下として傍観するに忍びず、縦令ひ公卿の身と雖も敢て国事に当らんとす、されど公けに願ふ時は到底許さるるを得ず、故に罪に問はるるを覚悟して窃かに京師を脱せんと欲す、然るに余は文事に長ずれども武事に疎し、貴殿余を補佐して軍事を司れ云々」と懇請せらる、忠良其の志に感激し直ちに軍裁たることを快諾す。而して夜に至るも尚ほ引続き万緒の計画謀議中、伏見の方面に当りて砲声■に起る。暫くにして忠良は同志等の決起兵を挙げたることを知りたれば、倉皇邸を辞して帰途につく。薩藩邸に着するや、中村半次郎は「砲と火薬とを携へて速やかに来るべし」との言を残して、既に出発せる由を聞きたれば、直ちに伏見に馳せて中村に会見す。時に伏見城は既に陥落し、死屍ところどころに累々として横はる。忠良同志の士と共に夜の明くるを待ち、京都の城南離宮に行き、水田中の薄氷を踏みて鳥羽街道に陣す。敵連?りに小銃を放つ。志士之と応戦せしが敵味方共に死傷多からざりき。忠良左手に貫通銃創を蒙れども之を覚らず戦闘に余念なし、富山弥兵衛の大声に「貴殿撃たれたるか、真紅の色を見よ」と注意するを聞きて、初めて之を知り、手拭を巻きて出血を防げり。間もなく富山も亦背部に異様の感を覚ゆとて其の背を忠良に示す。果たして銃丸の背骨を掠めて創を生ぜるあり。富山「口惜し口惜し」と叫ぶ。コレ後方より進み来りし味方の農兵の発せる銃丸に当るすものの如し。二人ともに本営御幸宮に至る、本営の対象吉井幸助及び西郷隆盛にして、病院に行きて治療を受くべしとの命を下せり即之に従う、後?今出川の屋敷に帰りて静養す。一日忠良薩州候に召され御近所■得能良助を介して君侯の御沙汰を蒙り、薩摩上布及び金五捨両を賜はる。金?子は同志の士に分与せり。 |
注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。旧字は適宜当用漢字になおしています。改行は原文通り。■は解読中の文字です。 注2:参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。それらと鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされていることはいうまでもありません。 「故鈴木忠良伝」の転載・転用は絶対に禁止です こちらは、市居浩一氏所蔵の謄写版コピーを、管理人自身が市居氏及び謄写版所蔵者の鈴木家の許可をいただいてを掲載させていただいておりますので、管理人による転載・転用許可は一切出せません。ご理解ください。 |
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「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」