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九州行道中記(1)
旅立ち:慶応3年1月18日(1867年2月22日)

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島原木津楼にて誓ある人々と酒酌みかはし別れを惜む折ふしなれば

     世の憂きに濡るる袖さへ人はただ今の別れの涙とや見ん
     
     ますらおの袖の涙は別れ路に濡るるものとは思はざりけり

  
慶応三丁卯の年、国の為とて筑紫のかたに赴かんとて、
正月十八日 同志の諸君と島原木津楼にて別杯酌みかはし、夕7ツ時にもありなん頃、春雨の降りければ、駕籠にて忠雄ぬし、三郎と共に袂を分かち、伏見寺田屋に至りて寺田子に逢ひ、それより淀川を下り

<ヒロ>
慶応3年1月18日、九州へ出立するまえ、伊東甲子太郎と新井忠雄は「同志諸君・誓いある人々」と酒宴を開き、別れを惜しみました。「同志・誓ある人々」はのちに御陵衛士となって新選組を離脱した人々(の一部)だと思いますが、伊東はこのように仲間を「同志」「誓ある人々」「友」と呼ぶ人でした。こういうところも、生き残りの同志からだけでなく京都の町人からも「いたって人物」と伊東が称された理由なのかなと思っています。ちなみに新選組局長の近藤勇は同志を家臣扱いして反発され、終には新選組瓦解を招いていますから、リーダーとしては近藤と伊東とは対照的なタイプだったような気がします。

別れの宴会では、伊東も思いもよらなかったことに彼(ら?)は涙を流したようです。

世の憂きに 濡るる袖さへ 人はただ 今の別れの 涙とや見ん
    (ヒロ訳:国を憂えて流す涙でさえ、今のわれわれをみるひとは、
        この別れのための涙だと見てしまうことだろう)

ますらおの 袖の涙は 別れ路に 濡るるものとは 思はざりけり
    (ヒロ訳:ますらおの袖の涙というものは国を憂えて濡れることはあっても、
        別れ路に濡れるものとは思いもよらなかったことだ)

現代の感覚ではよくわからない激情家ぶりですが、彼らが信条を通して国事に奔走できるかどうかは、これからの伊東と新井の九州行き、そして留守中の同志の働きにかかっていました(背景を読んでくださいね^^)。また、九州の志士に真情を理解されずに伊東らが殺されることもありうるし(実際身の危険を感じたことがあったようです)、京都に残った同志は御陵衛士拝命の運動が新選組に漏れて場合によっては粛清されることだってありえる・・・。伊東とその仲間たちにとっては、まさに命がけ、乾坤一擲のときだったのです。伊東は慷慨家であったとも伝わっていますが、常にも増して熱くなったのではと想像しています(酒好きの伊東らのこと・・・単なる泣きじょうごだったりして:笑)。

伊東、新井、三樹三郎は、16時ごろ、残りの同志と別れを告げ、春雨の中、駕籠にゆられて京都を出発しました。伏見の船宿寺田屋で、寺田子(誰なのか不明。調査中)と会い、その後淀川を船で下って大坂に向いました。
2001/02/28

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