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九州行道中記(2)
慶応3年1月19日〜21日(1867年2月23〜24日)

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十九日、朝浪花京屋に着、こちらにて三郎と袂を分ち、兵庫をさして三人急ぎ行くとて

  ますらをの心と共に春霞 たつをば止め あふ坂の関

湊川楠公の碑前にて

  行く末はかくこそあらめ我もまた 湊川原の苔の石ぶみ

夫れより日暮れに兵庫の旅店に宿り、玄蕃ぬしに逢ひ参らせ、くさぐさの物がたりいたす。

二十日 九ツ二分、蒸気船神速丸に乗込み、七ツ時に港を出づるとて

  波風の荒き世なれば如何にせむ よしや淵瀬に身を沈むとも

二十一日 播磨を打越えて何といふ処か、暫時船行を留め、

<ヒロ>
慶応3年1月19日朝、伏見から淀川を下ってきた伊東・新井・寺田・三樹は大坂八軒家の京屋(新選組の定宿でもあった船宿)に到着し、ここで三樹とは別れました。三人は陸路兵庫へ向かい、湊川神社の楠木正成(王事に尽くして斃れた忠節者として当時崇拝されていた)の石碑を訪ねたあと、宿屋にはいります。そして、やはり九州に出張する大目付永井玄蕃(尚志)のもとを訪ね、いろいろな話をしました。(永井の九州出張については調べ中というか、本館の「今日」で慶応3年に至るまでお預けかもしれません^^;。「九州行道中記」からは天領日田に向ったことは確認できるのですが)。

ますらをの心と共に春霞 たつをば止めそあふ坂の関
(ヒロ訳:益荒男の心が奮い立つと共に春霞が立ってきた。
     大坂の関よ、発つのを止めないでくれ−奮い立つ心を止めないでくれ)

行く末はかくこそあらめ 我もまた湊川原の苔の石ぶみ
 (ヒロ訳:自分も行く末はこうなるはずだ、湊川原の苔の石ぶみよ。
     −楠木正成のように、自分もまた、たとえ斃れようとも王事に尽くそう)

20日1時ごろ、蒸気船神速丸に乗り込み、4時ごろ出港しました(暁七ツは旅行の早立ちの時間です)。波風が荒かったのでしょうか・・・。

波風の荒き世なれば如何にせむ よしや淵瀬に身を沈むとも
 (ヒロ訳:波風の荒い動乱の世を、どうすればよいのだろう。どうにかしたい。たとえ、波風にもまれて渕瀬に沈むがごとく、動乱に命を落とし、二度と浮びあがらなくても)

ところでこの蒸気船神速丸は幕府が外国から購入した御用船(軍艦ではなく輸送船)ですので、伊東と新井は永井の出張に便乗した形になります。伊東の出張も、隊の公務(九州の情勢探索とか)であった可能性もあるとと思います。たまたま兵庫で永井に会って便乗させてもらったというより、元々の約束だったのではないでしょうか。いずれにせよ、初めて蒸気船(しかも外国製)に乗って海に乗り出した伊東らは、かなり高揚した気持ちになったのではと想像します(船酔いもしたかもしれないけど)。なお、この神速丸は、のちに、箱館に「脱走」した旧幕艦隊(榎本艦隊)の一角を占めることになります。神速丸は、江差沖で座礁してしまった軍艦開陽丸の救出のため、回天丸とともに向うのですが、荒れた海に難破してしまいます・・・。

21日、播磨を過ぎたどこかで一時停船し・・・
(2001.2.28、2004.2.23)

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