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慶応3年12月11日(1868年1月5日)

◆慶喜、大政奉還と将軍職辞退を承諾
◆長州兵入京・会津藩と一触即発の状況に
◇新選組、大阪の豪商に3000両返済

慶応3年12月11日(1868年1日5日)、王政復古クーデターの翌々日のこの日、慶喜は辞官納地(内大臣の辞退と徳川領の返上)問題の朝幕間の周旋を一任された越前候松平春嶽を二条城に呼んで、大政奉還と将軍職辞退を承諾(御請)することを伝えました。春嶽の記録によれば、このとき、慶喜は「家来はしきりに開戦するよう言うが、余としては朝廷に対して恐れ多く、祖先の名を汚すことは決してしないので御案慮安くださるよう」(口語訳はヒロ)と春嶽に告げ、ほとんど落涙の様子だったそうで、春嶽もまたもらい泣きしたとのことです(『逸事史補』)。

確かに、この日、勅勘のとけた長州藩の兵が京都に入り、それを知った会津藩ではさらに憤慨の度を高め、一触即発の状況になっていました(『京都守護職始末』)。春嶽の家臣中根雪江の記録では、二条城は「狂人のようになる者が多かった」そうです。会津藩士の手代木直右衛門(見廻組佐々木只三郎の実兄)が中根雪絵らに向かってしきりに先制攻撃を唱え、鎮静されるというひとこまがありました(「薩摩兵がすでに城へ迫るとの知らせがあった。先んずれば人を制す。今討たなければ勝機を失ってむざむざ敗れるだけと思うが、どう思われるか」(口語訳はヒロ)と血眼になって詰問したそうです(『再夢紀事・丁卯日記』)。

また、同日、西郷隆盛は、「勤皇の兵の勢いが増している。ただいまは会津と桑名の両藩だけであって(主戦を唱えているのがくらいの意味?)、外は傍観の様子である。・・・(中略)幕府においては、将軍は反正をしているが、家臣が沸騰していて鎮静が難しいと言ってきているが、虚実はにわかには判断がつかない」(口語訳はヒロ)との書簡を送っているそうです。

*****
同日、新選組は3日前(12月9日:旧暦)に大阪の豪商10軒から借用した4000両のうち、3000両を返済しました。(『金銀出入帳』)

<ヒロ>
新選組がなぜたった3日間で4000両中3000両を返済したかは不明です。時勢は幕権回復派にとってますます厳しくなっていますので、進んで返済したとも考えにくいです。借金と返済の間には王政復古クーデターがあったので、幕府がなくなり、新選組も存在の根拠を失ったことから、献金させられた豪商たちがこれをしおに返済を迫ったのではないかとも思えてきます。

1000両の具体的使い道ですが翌日には新選組は二条城に入っていてその引越しや手当てに使われたようです。ちなみに12月9日(旧暦)以降の出金をみると、

12月9日 原田10両
12月10日 吉村の着込み6両
12月11日 歩人足に200両、隊士や見習に383両
12月13日 隊士に270両、人足200両、吉村着込み10両、賄い方10両
となっています。

<参考文献>『逸事史補・守護職小史』(人物往来社)、『京都守護職始末』(東洋文庫)、『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)、『幕末政治と倒幕運動』(吉村弘文館)、『再夢紀事・丁卯日記』

2000/1/5、2001/1/5


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