1月の「今日の幕末」 HPトップへ

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1868年1月6日(慶応3年12月12日)

◆慶喜、会津・桑名藩主を連れて京都退去
◇新選組、二条城警護へ


慶応3年12月12日(1868年1日6日)夜、曇天。徳川慶喜は、会津・桑名藩主(旧守護職・所司代)を連れ、ひそかに二条城を出て下阪しました(大阪城入城は翌13日)。慶喜は水戸藩(慶喜の実家)に二条城警護を命じて去りましたが、新選組も、老中から警護を命ぜられ、二条城に残りました。

<ヒロ>

一般に、慶喜の会・桑両藩主を連れての二条城退去は、血気にはやる家臣や会津・桑名藩の暴発を未然に防ぐためだとされています。

京都退去について、尾張藩・越前藩(親藩のクーデター派で、王政復古後、朝廷と旧幕府間の仲介を委任されていた)に託して朝廷に提出された慶喜の上書は

「長州処分については・・・異議を申し上げる筋ではありませんが、万一異存の者がいて騒動に及べば、(天皇が)御幼君でもあり、驚かれ、皇位もどうなることかと深く悩まれる次第なので、鎮撫、説得の力をつくすようにとの御沙汰には畏まってございます。その後、御所を武装兵でお固めの上、非常のご改革をおおせ出されたことについては、とりわけ鎮撫について心を痛めております。諸役人をはじめ、今日まで精一杯諭して置きましたが、なにぶん多人数の鎮撫ですので深く心配しております。不肖ながら、誠意をもって尊王の道を尽しておりますが、みだりに下の者(下輩)の粗忽から水泡に帰すようになっては、この上にも深く恐れ入ることですので、(下輩の)人心の折り合いがつくまで、しばらく大阪へ移らせていただきます。

これは、まったく下々の者を鎮撫し、朝廷を御安心させたいからのことでありますので、衷心をご理解くださるようお願いいたします。もっとも、(朝廷へ)許可をいただいてから出立するべきことではありますが、かれこれ手間をとるうちに、万一の軽挙の過誤で国家の大事を招いては、かえって恐れ入りますので、すぐさま出発いたすことでございます。よってこのことを申し上げおきます」

(『京都守護職始末』:口語訳はヒロ^^;)となっています。

実際、慶喜は、この日、会津藩家老の田中土佐を呼び出し「君側の奸は除かなくてはならないと思うが、朝廷のおひざもとで武力衝突をして宸襟(天皇の心)を悩ませると禁門の変の際の長州と同じことになる、そこでしばらく大阪城に下がり、家臣を鎮静しようと思う。宰相(容保)も同行するように」と命じたといいます。(『京都守護職始末』)

慶喜は二条城退去にあたって、水戸藩に城を預けていきました。退去前、慶喜は城を預かることになった水戸藩大場一真斎らに対して「二条城守衛はもっとも大切なので外の者にはかえられない。汝らは先君(慶喜の父親徳川斉昭:通称烈公)以来忠誠の心がけもあるので必ず予の意を誤ることはなと信じている。そこで本城の守衛を任せたい」と言い、大場に差料の脇差を与えたそうです。当時、在京の水戸家中は、飯炊きを含めて300余人でした。

<ヒロ>

討幕(武力倒幕)派がこの時点で打倒目標にしていた会津・桑名両藩の京都退去は、この時点で武力衝突の危機を回避したようにも思えます。

しかし、一方で「・・・二条城を脱し大阪に下りし、慶喜一人ならばまだしもよろしかるべく候えども、会桑二候を連れられ候が第一の罪過なりという」(『逸事史補)』との後の見方もあります。これは、慶喜が会・桑を帰国させなかったことを指しているのだと思います。実は、この日、慶喜は会津候松平容保を呼び、帰国してもよいとの暇と馬を与えていました(『京都守護職始末』)。会津側も「恐悦」と受け止めていたのですが、慶喜は突然昼頃に様子がかわり(『元慶騒乱記』)、下坂への同行を命じたという経緯があったのです。

確かに会津の暴発を防ぐためなら、容保の早期帰国を促せばいいことで、なぜ容保を連れて大阪城へ入ったのか不思議です。

慶喜らの京都退去について尾張・越前候の連名で朝廷に提出された上書には、「会、桑二藩の儀も、一同召し連れ、ひとまず下坂、海路にて発途仕らせ候はずにござ候」(『京都守護職始末』)とありますが、その後、会・桑が国許に向けて海路出立することはありませんでした。

家近良樹氏(『倒幕運動と幕末政治』)は、ここに慶喜の政治的思惑が秘められていたのではないかと推測しています。下坂後もクーデター派に圧力をかけ続け、自分に有利な政治状況を引き出すために、慶喜は改めて会津藩の軍事力に注目したのではないかというのです・・・。

ちなみに『京都守護職始末』では、慶喜が容保に暇をとらせた後、尾張候徳川慶勝(容保の実兄)と越前候松平春嶽が二条城を訪問し、武力衝突を未然に防ぐために、家臣や会桑藩兵を大阪城に移すよう進言したのだとしています。しかし、当の春嶽は、10日と11日は登城して慶喜を説諭したものの、12日は登城しておらず、京都退去は翌13日になって家臣からきかされて驚いたとしており(『逸事史補』)、食い違っています。(勉強不足で徳川慶勝の動きはわかりません。ご存知の方いらしたら教えてくださいませ)。旧幕府目付けの永井尚志も深夜まで慶喜の行方を知らなかったといっており、退去がいかに内密に進められtらかを物語っていると思います。

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さて、新選組ですが、暴発を防ぐために慶喜が会津・桑名候を連れて下坂したあと、老中に命じられて二条城警護に残ったといわれていますが、ちょっと納得がいかないのです。

新選組は会津の主戦派に負けず劣らずの武闘派です。元桑名藩士の江間正發は当時を振り返って「(慶喜が)二条にああしていらっしゃたならば、必ず二条で始まったであろうと考えられます。新選組などの意気込みからみましても・・・・・・。」と証言しています(『昔夢会筆記』)。武力衝突を恐れて会・桑を大阪城にひきあげさせても新選組に城を預からせればどういうことになるか・・・新選組が薩長の挑発にのって戦端を開いてしまう危険性を老中が犯すとも思えないのですが・・・。

新選組がこれまで表裏一体のようだった会津藩に同行しなかった(できなかった?)のは、王政復古で守護職が廃止となったので新選組と会津藩との指揮系統が消滅したからだと思います。会津藩としては新選組を統率する職権(必要)がなくなったわけです。(ただし、会津候が公式に守護職を罷免になったのは旧暦12月14日のことですが)。わたしは、新選組残留は会津藩に代わる新選組の統率者が定まらないうちに、慶喜が京都を退去したために起こった混乱ではないかとも推測するのですが・・・

続きは1868年1月7日(慶応3年12月13日)の「今日」−水戸藩と新選組の対立−で

<参考文献>
『逸事史補・守護職小史』(人物往来社)、『史談会速記録』(原書房)、『京都守護職始末』(東洋文庫)、『幕末維新京都町人日記』(清文堂)、『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)、『幕末政治と倒幕運動』(吉村弘文館)

2000/1/6、2001/1/6



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