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1868年1月7日(慶応3年12月13日)

◆慶喜、大阪城に入城−薩摩藩の軟化
◇新選組、二条城警護で水戸藩と対立


慶応3年12月13日(1864年1日7日)夜、曇天。前夜、会津・桑名藩主(旧守護職・所司代)を連れ、ひそかに二条城を出た徳川慶喜は大阪城に入城しました。慶喜は水戸藩(慶喜の実家)に二条城警護を命じて去りましたが、新選組も、老中から警護を命ぜられたと主張し、二条城に残りました。この二条城警備をめぐって近藤勇は水戸藩と対立し、二条城の鎮撫を朝廷より命ぜられた目付永井尚志が仲裁にはいる騒動となりました。決着がつかず、永井は下坂して指示を受けることに決めました。

慶喜の下坂は倒幕側に好意をもってむかえられたようです。岩倉具視から慶喜の下坂に関する対応策を求められた薩摩藩は、越前・尾張藩の周旋に任せ、慶喜に真の反正がみられれば、これまでのことはとがめず、議定職の就任を認めることを言上しました(「藩庁への事情報告書」『大久保利通文書』)。

<ヒロ>
このとき在京の水戸藩は飯炊きを含めてわずか300余人(『史談会速記録』)。一方、当時新選組は150人ほどの隊士いたとみられています(『京都より会津まで人数』)。近藤はこの武力を背景があったので、御三家筆頭水戸藩の会議にのりこんで交渉することができたのではないでしょうか。会・桑の兵も共に守るつもりだと近藤が言ったとされるのはアヤシイ話で(近藤が誇張したか事実誤認だったか、証言をした長谷川の記憶違いか)、会・桑の藩士が藩主の命令なく新選組とともに戦うわけもありません。実際、会・桑の兵は続々と下坂したそうです(『京都守護職始末』)。

近藤勇は水戸藩指揮下における新選組の警備への参加を主張しますが、水戸藩は「慶喜公より直接の指示があった。他人の力は借りない」とこれを謝絶します。近藤は恐ろしい権幕で席を蹴ってその場を去ったそうです(『徳川慶喜公伝』)。ちなみに水戸藩は幕府目付の助勢も断っています。

長谷川(『徳川慶喜公伝』)によれば、このときの近藤は必死の形相だったそうです。そして、「その志は憐れむべきも、この人は幕府あるを知り、朝廷あるを知らずという者ゆえ、この城中に留めおきなば事に益なくして後に害ありと思うがゆえに拒絶せしなり。近藤は定めて口惜しく思いしならん」としています。

慶喜が二条城を退去したのは、万一暴発が起こって朝敵となることを予防するためということを含め、その後の政局を有利に導こうとしたからですが、その際に水戸藩に城を預けていったのも、実家であり尊皇の志篤い水戸藩ならば、慶喜の「意を誤らざるべし(挑発にのって朝敵になる戦争は起こさない)と信ぜり」(『史談会速記録』)だったからとされています。近藤の言動をみていると、一戦を避けようとする旧幕側の政治判断を理解していないように思えます。

<<もっと詳しく>>

長谷川作十郎は史談会ではさらに詳しく次ぎのように述べています(口語訳はヒロ)。

(慶喜らの退去後)、みなで手続き等を話し合っていたところ、近藤が入ってきた。ほとんどわたしのすぐそばに着座して、
「今度二条城守衛を任されたと承る。今や徳川家の大事の時なので、われらもともに守る覚悟である。また、会津桑名の勇士たちも残って城を守る決心だ」
と泰然と決意を述べた。みな顔を見合わせて言葉を発しなかった。そこでわたしが答えた。
「それは心得ないお言葉である。われら水戸藩は(慶喜公から)直に本城守衛を命令され、いまだ罷免されていない。かつ他人と協力して守衛しろとの命令を承ったこともない。こういうことなので、どうして他人の力を借りる必要があろうか。わが藩にはわが藩の力があり、あえて君等の助けを必要とはしない。どうぞご遠慮あるように」
と言って断ったところ、近藤は必死の顔になり、
「本城を守るのは御藩のみにては不可能である。わたしたたちを始め会津桑名の面々も協力して守衛する決心である。万一落城すれば実に徳川家のためにはゆゆしき大事である。ぜひともともに守衛すべきである」
と憤然として大言した。わたしも必死になって答えた。
「わが藩はわが藩の力があるので任せるべきである。守衛する能力がないとは予めわかることではない。必死の覚悟でその任を尽すだけだ」
と言い切ると、近藤は必死に迫って抜刀しかねない様子だったが、憤然として「左様ですか」と言い捨て、太刀をとるなりその場を走り去った。


また、目付けの永井はこのように証言しています。

・・・城預かりに不都合が起こった。慶喜公からは水戸兵に預けたが、老中からは新選組にお達しがあったらしい。翌日になって、ついに水戸と新選組の間に争論が起こった。新選組の者がやってきてそのことを訴えたので、水戸藩を呼び出して問いただしたところ、直に(慶喜公から)預かったという。新選組に問いただすと老中から達しがあったと主張してやめない。ならば持ち場の決まりがあるかときくとそれもなかったので、わたしも判断に困った。このうえは大阪に下って真否を問いただそうと諭して出立した。わたしには新選組統率の職権はないのだが、新選組は常について離れなかった。たいへん情誼が深く、陰に陽にわたしを護衛してくれた。わたしの道中には所々に隊士を配置して護衛を怠らなかった。この交誼があるので、「下坂には是非一緒に随行したい」と言ってきた。やむをえないので勝手にするがいいと、新選組を引き連れて二条城を出た(永井尚志談『史談会速記録』口語訳はヒロ^^;)


<参考文献>
『徳川慶喜公伝』、『史談会速記録』、『京都守護職始末』、『幕末維新京都町人日記』、『新選組史料集コンパクト版』、『幕末政治と倒幕運動』

(2000/1/7、2001/1/7)


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