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慶応3年12月14日(1868年1日8日)、京都守護職・所司代が御役御免となりました。これに関連して、見廻り組や奉行所与力を中心として新たに新遊撃隊が編成されました。新選組はこの新遊撃隊御雇を命じられました(『淀稲場家文書』)が、これを断り、新選組と名乗り続けることにしたといいます(『島田魁日記』)。 同日、新選組は、二条城警衛について真否を正しに下坂する永井尚志に随行の許可を得、ともに二条城を出ました。(永井尚志『史談会速記録』)。大雨の中、小舟に乗っての下阪でした(『島田魁日記』)。 一方、薩摩から「慶喜に真の反正が認められればこれまでのことは問わず、議定に就任させてもよい」との言上を得ていた岩倉具視は、公議政体派の土佐候、越前候、及び戸田大和守(山稜奉行:御陵衛士の支配)と面会し、慶喜の辞官問題について、「前内府」と「前」をつけることを認めました。(『昨夢記事』) <ヒロ> 老中たちは、水戸藩同様に、新選組の存在が幕府に害するものと考え、新遊撃隊への編入を通す新選組解体をねらっていたのかもしれません。新選組が新遊撃隊御雇を断ったのは、「新選組という名に愛着があったから」ともいわれますが、むしろ、新組織の一部隊になってしまい、彼らの存在感が薄れることに組織的危機感を感じたためとは考えられないでしょうか。いずれにせよ、二条城警備から外され、また新遊撃隊御雇を拒否した彼らは京都において身のおきどころをなくし、かねて交誼のあった永井を頼って下阪したのではないかと思うのですが・・・。 <参考文献>『昨夢記事』・『史談会速記録』、『新選組史料集コンパクト版』、『新選組日誌下』、『倒幕運動と幕末政治』 2000/1/8、2001/1/8 |
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