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1868年1月10日(慶応3年12月16日)

◆岩倉具視、慶喜の辞官納地に関してさらに譲歩
◇新選組、伏見入り − 衛士残党の間者を殺害

慶応3年12月16日(1868年1日10日)、慶喜の辞官問題について、岩倉具視は、さらに譲歩を示しました。岩倉は公議政体派の土佐藩執政後藤象二郎に対し、辞官納地を新政府から通達するのではなく、慶喜が申し出ることになる朝廷への奏請書の原案を示したのです。これには、領地返上の文字はありませんでした。(『再夢紀事・丁卯日記』)


同日、新選組は伏見奉行所に本陣を構えました(島田魁『島田魁日記』、西村兼文『新撰組始末記』ほか)。

新選組は、王政復古を受けて徳川慶喜が退京した後、二条城警備への参加を水戸藩から拒否され、新遊撃隊御雇も拒否し、既知の永井尚志に随行して下阪したものの、永井も彼らをずっと側に置くつもりはありませんでした。身の置き所を失った新選組は、永井に伏見市中警護を説得され、この日、伏見入りしたのです。同日夕、御陵衛士頭取で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の同志で、隊に残留していた小林啓之助が、御陵衛士残党の間者として殺害されました(『新撰組始末記』)。数えで21歳でした。


元衛士の阿部隆明(十郎)の回想によれば、小林は新選組脱走の期を逃し、近藤らとともに伏見まで行くことになったが、阿部の書簡をもっているのが発見されて島田魁に斬殺されたようです(『史談会速記録』90)。元新選組の永倉新八の回想をもとにした読物によれば、永倉が自分の部下の小林が衛士残党の篠原宛の書簡をもっているのをみつけ、土方に相談したところ、この時期におよんで反逆者が出るのは動揺を招くので、絞殺し・密葬したとのことです。絞殺したのは島田魁とのことです(『新撰組顛末記』)。

小林は佐竹藩出身で、慶応元年の入隊です。入隊当時は数えで18歳でした。いつしか伊東らの同志となっていたようですが、近藤・土方そのほか誰もそのことに気づいていなかったため、御陵衛士の新選組離脱時、隊に残しておいたようです。

<参考文献>『再夢紀事・丁卯日記』、『新撰組顛末記』、『新選組史料集コンパクト版』、『新選組日誌下』、『倒幕運動と幕末政治』

(2000/1/10、2001/1/10)

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