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慶応3年12月17日(1868年1日11日)、辞官納地問題で慶喜側に軟化をみせた岩倉具視は、公議政体派土佐藩執政後藤に対して、慶喜の上洛を周旋するよう懇請しました(「なにぶん内府公(慶喜)御上京なくては相かなわずことに候えば、ぜひともその運びの周旋いたしくれ候よう、懇懇申し聞かされ候」)。これを受け、後藤、及び松平春嶽(越前候)・徳川慶勝(尾張候)・永井尚志(目付)らは、慶喜上京の手順を決めました(「内府公御上京の上、御辞官ならびに御領地の義とも、内府公御口上にて両候へ御演建にあいなり候を、両候御かきとり御奏達にあいなり、それを聞こし召し、じかに参代おおせだされると申す御手順」)。(『再夢紀事・丁卯日記』:口語訳はヒロ) さて、この日、新選組300名ほどが伏見に来るという噂をきき、荷物をもって田舎に逃げ出した町人がかなりいたそうです(『知覧文化』-『幕末・維新こぼれ話』に所収)。 新選組が布陣した伏見には、御陵衛士の残党の潜伏する薩摩屋敷がありました。この日の夜、衛士残党の一人、加納鷲尾が京都から戻り、沖田総司が新選組本隊とともに伏見には行かず、六条の近藤の妾宅に潜伏しているとの情報を同志の阿部十郎らに告げました。彼らは、復仇として沖田を撃つことに決めました(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』90)。 <ヒロ> 伏見の町人にとっても、新選組は、治安の守護者というより、むしろ争乱の種になる疫病神にしかみえなかったということなのでしょうか。 沖田が京都に居残っていた理由は持病の労咳が悪化していたためと考えられています。新選組が永井尚志に随行して下阪したときには本隊と離れていたものと思われます。 <参考文献>『史談会速記録』、『新選組日誌下』、『倒幕運動と幕末政治』、『再夢紀事・丁卯日記』 2000/1/11、2001/1/11 |