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1867年1月12日(慶応3年12月18日)

◆永井尚志、慶喜上洛を促しに下坂
◆会津藩・桑名藩の帰国を促す沙汰が再度下る
◆慶喜のクーデター非難状が京都に届く
◇近藤勇・沖田総司、御陵衛士残党に襲撃される

慶応3年12月18日(1868年1日12日)、岩倉具視の慶喜上洛要請を受け、永井尚志は周旋のため下坂しました。土佐藩・越前藩・尾張藩との相談の結果でした。

一方、同日夕、朝廷から尾張・越前藩に対して会津・桑名藩の暴発を防ぐための早期帰国を促す沙汰が再度下りました。(「徳川内府下坂後、鎮撫方の義命ぜられ候ところ、会桑いまだ滞坂す。このたび山崎あたりに人数繰り出し候やこれ聞くのあり、人心動揺、万一年若の徒、ゆえなく発し候事にては、はなはだよろしからず候間、会桑二藩早々帰国とりはからうべく、きっと尽力あるべく、更に御沙汰候事)。(『再夢紀事・丁卯日記』)

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この日の早朝、伏見入りした新選組と同行せず、京都の近藤勇妾宅に潜伏していた沖田総司を、阿部十郎・内海次郎・佐原太郎の御陵衛士の生き残りが襲撃しましたが、沖田は一足先に伏見に向かっており、襲撃は未遂に終わりました(『史談会速記録』)。

沖田襲撃を未遂に終わった阿部らは、寺町で、馬上の近藤が警護を20名ほど連れて二条城に向かうのを目撃し、急いで小手・鉢巻きを購入したあと、近藤を追いかけて再び妾宅に向かいますが、近藤らは伏見奉行所に向かって引き上げた後でした。

阿部らは間道を通って先回りし、薩摩藩伏見屋敷にいる同志に近藤が伏見街道を通ることを知らせ、待ち伏せました。阿部と富山弥兵衛が鉄砲を持っており、鉄砲を撃ち込んだら警護の者や近藤が斬り込んでくるのを迎え撃つ計画であったといいます(当時の鉄砲の精度から撃ち殺すことは想定していなかったらしい)。しかし、鉄砲玉は近藤の肩にあたり、近藤は重傷ながらも馬を走らせて逃げおおせ、警護の者も逃げてしまったので、隊士一名と従僕を斬殺したに終わったそうです(阿部談『史談会速記録』)。ちなみにこの従僕は、油小路において、伊東に恩がありながら暗殺メンバーに加わっていた勝蔵だという説があります(西村兼文『新撰組始末記』)


<ヒロ>
沖田襲撃は衛士生き残りメンバーの一部によるものでした。近藤妾宅に斬り込んだ阿部・内海・佐原の3名は、伊東暗殺の報を受けたときに出張・外出中で高台寺に居合わせず、油小路の闘いにも間に合いませんでした。同志を惨殺されたことへの復仇はむろん、現場に居合わせなかったという無念さが、彼らを沖田襲撃に向かわせたのではないでしょうか・・・。沖田にとっては危機一髪ともいえる事件ですが、見方をかえれば、「剣に生きるものは剣に弊れる」最後の機会を逃してしまったのかな・・・とも思ってしまいます。


<参考文献>『再夢紀事・丁卯日記』・『新選組史料集コンパクト版』

2000/1/12、2001/1/12

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